うどんスナック 松ト麦

井上こんさん

最寄り駅
駒沢大学

環状七号線の騒音が、狭い階段を一段降りるたび遮断されていく。本当にここ……? と、はじめての人は思うに違いない。急に視界がひらけたと思ったら、うどんのイラストが描かれた暖簾が見えた。なかでは、茹でたての麺が湯気とともにざるにあげられていた。冷水で揉まれて井上さんに撫でられたつやつやのうどんは、やや硬めで弾力があり、それなのになぜか口に入れた瞬間はふわっとした柔らかさを感じる。その独特な食感が二三日経つと急に思いだされて、無性に食べたくなるのだ。うどん屋で、スナック。そんな謎めく店を取材した。

文章:吉川愛歩 写真:阿部高之 構成:鈴石真紀子

食べる人から作る人へ

店の中に入ってちょっと驚くのは、カウンターの向かいに「製麺室」と札のかかったガラス戸の部屋があることだ。そこには見たことのない銘柄の小麦粉がどさりと袋ごと置いてある。もちろんひとつひとつ違うもので、井上さんは日々品種を変えて、ここでうどんを打っている。

「うどんを打つときはどうしても粉が飛ぶので、こんなふうにしたんです。一日目はここで粉を混ぜて踏んで、そこにあるワインクーラーで一晩寝かせます。翌日は生地を伸ばして切って。 営業日は毎日そんなふうにうどんを仕込んでいます」

年間400杯はうどんを食べるという井上こんさんがはじめてうどんを打ったのは、23歳のとき。当時はライターや編集の仕事をする傍ら、うどんは「趣味」だったという。

「当時は、ファッションやお店紹介などの記事を書く仕事をしていました。でも、うどんは小さなころからずっと好きで、働きはじめてからも地方出張のたびに現地のうどん屋さんを調べては立ち寄っていましたね」

そのうち、「好きなことを追求したら仕事になるかも」という思いが芽生え、ブログに食べ歩きの感想をまとめるように。「うどんライター」という肩書きをつけたのもこのころだ。

「食べ歩くなかで、うどんに使う小麦粉にはいろんな品種があるんだということを知りました。 一般的にはうどんって、オーストラリア産の小麦粉が使われていることがとても多いんですけど、実は北海道から沖縄まで日本各地でも作られているんですよ」

そもそもうどんは、郷土料理のようにその地域ごとに発展していった食べ物。稲庭うどんや讃岐うどん、水沢うどんなども、その土地で育てられた小麦があってこそ広がった文化だ。

「そんなさまざまな地域の国産小麦を取り寄せてうどんを打ってみたら、びっくりするほどおいしかったんです。それぞれの品種で個性が豊かなのも楽しくて。インターネットで調べながら家でうどんを打ちはじめて、あらゆる品種を試しました」

井上さんが流通量の少ない国産小麦を使って独自に打ち方を研究し、ものすごい量のうどんを食べ歩いているという噂はあっという間に広がった。「買えるAbemaTV社」という番組ではうどんをプロデュースし、その後は自身でも九州産小麦を使ったうどんを商品化して、福岡空港限定で販売。筑後うどん大使にも選ばれるという快挙を成し遂げた。

「そのとき花束代わりにと、わたしが好きなニシホナミという小麦をドライフラワーのように乾燥させて麦束にしてくださって。これがすっごく嬉しかったです。今もお店に飾ってありますよ」

2018年には食べ歩きブログを「うどん手帖」(standards刊)にまとめることになり、それと並行して、フードイベントを主催。「国産小麦3種食べ比べ」と銘打ち、小麦粉の品種別にうどんを提供するというめずらしいスタイルが注目を集めた。これが松ト麦の原型だ。

うどん談義に花咲くスナックスタイル

松ト麦(まつとむぎ)という店名は、松陰神社前で週に一度だけうどんスナックをひらいていたときにつけた。「松」は「松陰神社前」、「麦」はもちろんうどんの原料である。

「イベントでうどんを打つのは定期的にやっていましたが、お店を持つとか、うどんを軸に活動していこうなんて具体的には考えていませんでした。ところがある日Twitterに、『松陰神社前にあるスナックで、週に一度だけオーナーになりたい人はいませんか?』という募集が流れてきたんです。ベッドに寝転がりながらそのツイートを読んで、スナックでうどんっておもしろいかもしれないなあと思って、とっさに『やりたいです!』とコメントしました。そうして週に一度、スナックニューショーインでうどんスナックをひらくことになったんです」

スナックニューショーインは、シェアハウスを運営している山本遼さん発案のお店。近所の人がつながりを持てる場になるようにと、オーナーが日替わりになるスナックとしてスタートさせた。井上さんはそのときにはじめて「松ト麦」という屋号をつけ、月曜日のオーナーを担当。おつまみやお酒も提供しつつ、締めにうどんが食べられる「うどんスナック」のはじまりだ。

うどん屋でスナック。しかも国産小麦の品種に焦点を当てるという画期的な試みに、お客さんは次第に増えた。同じころ、うどんライターとしてテレビ出演したこともきっかけになって、井上さんの存在が広く知れ渡ることになる。

「テレビに出てお客さんがすごく増えたというわけではなく、興味を持ってくださった方が調べて来てくださるという、いい雰囲気の空間だったと思います。当時のキッチンはうどん屋として設計されていたわけではなかったので、カセットコンロでお湯を沸かして茹でて、またお湯沸かして…って一杯のうどんを作るのにものすごく時間がかかってしまっていました。でも、どなたも文句なく待ってくださって。うどんが出るまでに一時間とか…。ありましたねえ」

そのうち毎週欠かさず来てくれる常連客もでき、井上さんの頭にも少しずつお店を持つということが浮かぶようになる。ちょうどスナックニューショーインでの活動が1年を迎えたころ、ゆるゆると物件探しをはじめた。

なかなか気に入った場所が見つからず、ふと思いついて住居を主に扱う賃貸物件サイトを覗いたら、なんとここがヒット。SNSなどで知った人しか来ないだろうと1階にこだわらず物件を探していたので、地下でも気にならなかった。それに出会ってみたら大家さんがとてもいい人で、井上さんの活動を心から応援してくれているという。手製の看板も階段上に出させてもらえることになり、常連客はこれが出ていると階段を下ってくる。 店をオープンするときには、うどんに携わる方々が麺棒をプレゼントしてくれた。そのうちのおひとりは、下馬にあるうどん屋「ニューさがみや」さん。松ト麦のロゴを作り、刺繍を施してくれたそうだ。

「いろんな方が応援してくださいました。今は常連の方が6割で、SNSで見てくださったお客さんが4割くらいいらっしゃるでしょうか。わかりづらいお店なのに、なかには通りがかったからと入ってきてくださる方もいらして。見つけてくださったと思うと嬉しいですよね」

なんでうどん屋さんなのに夜の営業にしたんだろう…? と率直な疑問をぶつけてみると、「朝に弱いんですよ」と、井上さんはにこにこ笑う。

「それにうどん屋さんって一般的にはサッと食べて帰る、というお店が多いですよね。土曜日はランチ営業もしていますが、やっぱり少しせわしないです。そうじゃなくて、うどんを通してお客さんと会話したくて。お客さん同士が話しているのを聞くのもとても心地いいんですよ ね。いろんな地域のうどん料理の話とか、そこから郷土の話につながったり、旅の思い出をシェアしたり。製粉メーカーの方も足を運んでくださるので、粉のマニアックな話もしたくて、スナックニューショーインでの形態をそのままにしたんです」

お客さん目線で考えるメニューへの思い

店内の黒板に書かれたメニューを見てみると、うどん屋らしくごぼ天やとり天といったおかず も用意されていれば、しばづけポテサラや茄子のだし浸しなど、お酒のおつまみにうってつけの品もある。
ひときわ目をひいたのが「のり吸い(うどんだしと有明海苔)」と書かれたもの。出していただくと、カップに注がれたおだしに焼き海苔が浮かんでいた。口元に近づけただけ で香ばしさが漂ってきて、時間を追うごとに海苔がとろんとしてくる。ちびちびと、ずっと飲んでいられるくらい好きな味だ。

「うちのお客さんはだいたいうどんを2~3杯食べていくんです。でも、最後に温かいうどんで締めようかな、なんて思っていてもお腹がいっぱいになってしまう人もいて。そういうときの ために『のり吸い』を作りました。おだしの旨みと海苔の香りはうどんを食べたような満足感があって、締めによいかなあって」

確かに、お酒を飲んだあとなら特におだしがほしいところ。うどんを何杯も食べる人がいるというのには驚いたが、これならお腹がいっぱいになっても最後にいただけそうだ。

「毎回2種類の麺を用意しているので、温冷も考えると、かけうどんだけでも4通りの味があるんです。他にも季節の味やカレーうどんなどもあるから、食べる方は4杯くらい食べていかれますよ」

この日のラインナップは、岩手県産のネバリゴシという品種と、今年(2021年)6月に流通が はじまったばかりの滋賀県産びわほなみ。むちっとした食べ応えのある麺に仕上がる。

「小麦粉の新しい品種って、交配してから品種になるまでに最低でも10年かかると言われているんです。病気に弱かったりうまく生産できなかったりして、商品化できないものもあります。だからやっとびわほなみをお出しできて嬉しいです」

新しい品種に触れるときは楽しい一方で、大変なこともある。品種によって水分量や打ち方が 変わるだけでなく、その日の気温や湿度にも左右されるからだ。仕上がったうどんは必ず試し茹でして、その日によって茹で時間を調整しているという。感覚を頼りに切ったうどんは太さが僅かにばらつき、それが機械で大量生産されたものにはない、手づくりならではの旨みにな っている。この一連の丁寧な仕事が、忘れられないうどんの味につながるのだ。

手ぬぐいでつながるうどんの世界

しかしオープンしてまもない2021年1月、二度目の緊急事態宣言が発令。以降、井上さんは宣言が発令されるたび休業することになる。そもそもうどんは単価が低い。食べる側にとってはありがたいけれど、閉店に追い込まれた店からさみしい連絡が届くようにもなり、業界全体が落ち込んだ。

「せっかく自分が身を置かせてもらったうどん業界のために、何かできることはないかと考えていました。それで思いついたのが、『すする。ぬぐう。手ぬぐいプロジェクト』です。手ぬぐいを一枚購入していただくと、うどん一杯分の利益がうどん屋さんに還元できる仕組みで、さまざまなお店に置いていただいています」

手ぬぐいのデザインには、さまざまな製粉メーカーから借りた代表銘柄のロゴを使った。取引 のある会社を含めて50社以上に企画書を送り、32社もの製粉メーカーが賛同してくれた。

「このロゴのひとつひとつがとてもかわいいので、粉の銘柄を知らない方にも興味を持っていただけるのが嬉しくて。買い取り式だけではうどん屋さんの負担になってしまうので、手ぬぐいが売れた分だけお支払いいただく方法も用意しました。休業を決めるのは苦渋の決断ではありますが、休んでいる時間を使って、手ぬぐいプロジェクトのような活動ができたらいいなと思っています。それに営業なさっているうどん屋さんもたくさんあるので、普段うちに来ていただいている常連さんにも、この機会に他のお店にも行っていろんなうどんを食べてみてねって言ってるんです。うどんが好きな方が増えたら嬉しいし、わたしもいろんなところに食べに行こうと思っています」

飲食店を取り巻く状況は外から見るよりずっと厳しいものだろう。けれどその中でも日々学びを絶やさず、おいしさを追求している人がいる。そのことが、家にいるしかない時間の支えになり、次に出かけられるときへの希望につながっている。

うどんスナック 松ト麦
住所:東京都世田谷区野沢2-26-5 野沢ビルB1F
土曜:12:00〜15:00、18:00〜22:00
日曜、月曜:18:00〜22:00 ※すべて45 分前LO
定休日:火曜~金曜
Twitter:@koninoue
Instagram:@kon__udon

 

(2021/07/27)

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