MAISON KUROSU
黒須貴仁さん
用賀駅から歩いて5分弱。スーパーマーケットやドラッグストア、たこ焼き屋さんやお花屋さんなどさまざまなお店が軒を連ねる商店街の賑わいを抜け、スッと穏やかな空気が流れはじめた一角に、パン屋「MAISON KUROSU」はある。特に目を引く派手さはなく、かといってひっそりというのとも少しちがう軽やかな佇まいは、やわらかさと共に「いつもそこにある」という貫禄さえ感じるのだが、実は2021年にオープンしたばかり。その独特の存在感を紐解きたくて、オーナーシェフの黒須貴仁さんにお話をうかがった。
文章:内海織加 写真:阿部高之 構成:鈴石真紀子
やわらかに軽やかに、「和」の美しさを散りばめて
真っ白な外装にアンティークの扉、控えめに小さく掲げられた看板も相まって、「MAISON KUROSU」の入口にはどこかヨーロッパの空気が漂う。しかし、視線をほんの少しだけ上げると、扉の上には欄間のような横長のガラス窓に家紋のようなロゴマーク。そして扉を開けると、中には提灯のようなスタイリッシュな照明がやさしく灯って、やわらかに和の雰囲気が漂う。
「日本らしい和のテイストは、どこかに入れたいと思っていて。このロゴマークは、パンのような、クロワッサンのような、雲のような、そんなイメージを、家紋を模した絵柄にしてもらったものです。この照明は北欧のデザイナーによるものですが、店内空間にも程よく和な空気を醸し出してくれていて気に入っています」
そう話してくれたのは、パン職人らしく粉を纏ったシューズとエプロン姿で出迎えてくれたシェフ黒須貴仁さん。ニコニコと話すその姿に、すでにパン作りが好きでたまらない、という感じが溢れている。
ショーケースには、自慢のフォカッチャなどさまざまな具材が乗ったパンや、チョコレートやクリームを忍ばせたスイーツのようなパンなどがずらり。その中で特別な存在感を放っていたのは、ロゴマークの焼印が押された餡パン「和三盆餡子」。京都の老舗「山梨製餡」と共同開発した自慢の餡子をふんわりとした菓子パン生地で包んだこの店の人気商品だ。ずっしりとした餡パンが多い中、「MAISON KUSORU」の餡パンは生地が軽くて中の餡も甘さ控えめ。心が満たされる満足感は十分にありながら、もうひとつペロリといけてしまいそうな、なんとも罪深い逸品だ。
「お店の中に和を取り入れたいと思った時、ラインナップとして作りたかったのは餡パンでした。自家製で餡子を作るというのもありますが、餡にもこだわりたかったので、あえて京都の老舗の製餡所に協力していただくことにしたんです。極力甘さを控えつつ、パンに合わせておいしく食べていただける餡子を目指して、山梨製餡さんには約1年半にわたって何度も試作をしていただきました。本当にありがたいです。パン生地も、餡子に合う歯切れのいいパンを目指して試行錯誤。小麦粉の種類や配合を工夫しながら理想のパンに近づけていきました。実は、これまで私自身はあまり好んで餡パンを食べてこなかったのですが、自分でもおいしいと思える餡パンがようやっと完成しました」
パンの中に生きる、修行先で得たものづくりのDNA
つい華やかなショーケースの中に注目しがちだが、壁側の棚に美しく並べられた食パンやバゲットも、食事に合うパンとして愛されている人気商品。
中でも「雲」と名付けられた食パンは、その名の通り、ふんわりとやさしく軽い食感が特徴的。トーストすればもちろん絶品だが、そのしっとりもっちりとした食感とほのかな甘味は、そのままでもおいしく幸せな気分に誘ってくれる。
「雲は、湯種製法を用いたもっちりと弾力のある食パンです。湯種との配合バランスで、独特の食感に仕上がっています。発酵バターも贅沢に使っているので香りも豊かですよ」
あらためてずらりと並ぶ側面に目をやると、パン生地が作り出したラインがこの店のロゴを彷彿とさせることに気づいて、思わず表情が緩んでしまった。
先がシュッと尖ったバゲットは、真っ直ぐな立ち姿に愛らしさと美しさ。「実は、まっすぐにするのって難しいんです」と黒須さん。
「毎日いろいろな種類のパンを作りますが、中でもバゲットを作るのが好きなんです。整形したりクープを入れたり、作業自体はシンプルですけど、奥が深くて。パン職人になろうと決心して修行したのが、栃木にある『ペニーレイン』という地元の人気店でした。そこのシェフが得意だったのがバゲット。真っ直ぐで美しい彼のバゲットに憧れて、仕事を見て学んで極めようと努めた日々でした。彼の仕事は丁寧で早くてきれいで。今でも成形が好きなのは、彼のもとで学ぶことができたからだと思っています」
もう一つ、黒須さんのパン作りのDNAとして生き続けているのは、2つ目の修業先として2年間勤めた「ル パン ドゥ ジョエル・ロブション 」での経験。黒須さんの作るフォカッチャは、仕上げに添えるタイムのあしらいひとつ取っても上品で繊細。それも、フレンチが母体のロブション譲りということかもしれない。
「ロブションは、自分の中のパンの常識が覆った場所でした。料理のようなセンスとスタイリッシュさがあって、仕上げもとにかく美しくて。将来的にこういうパンを作っていきたい、と思った店でした。ロブションでは、フォカッチャも、焼いた後にオリーブオイルを塗って、ガスバーナーで炙って、香草をきれいに乗せて…… 釜から出した後にこれだけの手間をかけます。この店でも、ロブションの手間暇のかけ方には敵いませんが、仕上げまで丁寧に美しくと思いながら作業をしています」
出会いによってもたらされた、素材の知識とこだわり
平日でも朝からお客さんが次々と訪れる「MAISON KUSORU」。話題のパン屋さんというと遠方からでもパン好きが訪れるイメージもあるが、ここを訪れるお客さんは、自転車でサッとやってきたり、小さなお子様連れで訪れたり。スタッフの方や黒須さんとも「こんにちは!」「体調いかがですか?」なんて挨拶を交わしている様子を見ると、顔見知りが多いようだ。
「ありがたいことに、お客さまは圧倒的に常連の方が多いですね。小さいお子さんがいらっしゃる方もたくさん来てくださいますし、近所に住んでいるご年配の方や近くのレストランの方、最近は男性のお客様も多いですね。いろいろなおいしいものを教えてくださったり、お土産に持ってきてくださったりする方もいらっしゃって、ありがたい限りです」
子供たちにも圧倒的な人気を誇るのは、ころんとまぁるいクリームパンだそう。「うちのクリームパンは特にそうですが、全体的に甘さは控えめです。なるべく次世代の子供たちにも安心して食べてもらえるものを作りたいんですよね」と黒須さん。
「砂糖って、食品添加物という意味では最も気をつけるべき食材だと思っています。でも、糖を抜いたらパンはできません。だからいろいろ調べて、現在はミネラルが豊富に含まれている含蜜糖を適量使うようにしています。素材へのこだわりという意味では、小麦粉も野菜も塩も、なるべく減農薬、無農薬のものを厳選して使うようにしているんです」
店内の壁にかかっているフレームにも、食材へのこだわりがわかりやすく書かれ、掲げられている。しかし、それも押し付けがましくなくさりげないのが、「MAISON KUSORU」らしさということかもしれない。
「数年前までは、食品添加物や農薬云々にさほど興味はなかったんです。でも、ロブションで働いていた頃に、たまたま日本脂質栄養学会の方と知り合って、油のことを勉強しはじめたら、素材選びの重要性をリアルに感じるようになりました。この店を出す少し前には、栃木で無農薬の野菜や小麦を育てている企業と出会って、そこで商品開発のお仕事をさせていただいたのですが、そこでも野菜の作り方や農薬などを知ることができました。いやー、素材への意識をここまで変えてくれたのは、完全に“出会い”なんですよね!」
そう言って、黒須さんは無邪気に笑う。オーガニックなど食材へのこだわりは、真剣になればなるほどにストイックになっていくケースもあるが、黒須さんの場合は勉強することも素材にこだわることも、好きなパン作りとワクワクする楽しさの延長にあるのだろうと、その表情で理解した。
遠回りしながらも導かれるように決まった今の場所
お店の場所を検討している時、ポイントになったのは、この素材へのこだわりと、健康への想い、そして子供たちも安心して食べることができるパン作りという点。それを受け入れてくれる土地はどこだろうと考えて、導かれた先が用賀という土地だった。
「最初は栃木でお店を出すことも考えていたのですが、コロナ禍でさまざまな状況の変化もあり、東京近郊での開業を考えるようになりました。素材のこだわりを理解していただけるような場所となるとどこだろうと考えた時に出てきたのが、横浜の青葉区、都筑区、そして東京の世田谷区。さまざまな物件を見て、話が進み始めたら条件が合わなくなってしまったり、物件都合で進められなくなってしまったり。そんな中でタイミングよく出会ったのが、今の物件でした」
いろいろな遠回りをしながらも、導かれたとしか思えないような流れで辿り着いたのが、今の場所。
「用賀は温かい方が多いですね。当初の読み通り、素材へのこだわりも理解いただける方が多い気がします。商店街の方もいい方ばかりなんです」
と黒須さん。親しいお店とは、普段から挨拶を交わしたり行き来をしたり。そんな温かなコミュニティは、いい意味で東京らしくない。
コロナ禍真っ只中のオープンは、商工会議所の方にも心配されたそうだが、このタイミングでのオープンは、むしろよかったのではないかと想像してしまう。というのも、オープン当初の世の中を振り返れば、外食や交際も制限され、街も人も元気を失っていたこの時期、商店街に現れた「MAISON KUSORU」は、おいしいパンを持ち帰って楽しむことができるという意味でも、明るく前向きな存在としても、この街や人々の救いや励みになったはず。
常に追い風に乗るようなポジティブな空気を纏う黒須さんに、最後にひとつ、これからのことを聞いてみたくなった。
—— 今思い描いている夢ってありますか?
「まずは、近所の子供たちが買いに来てくれるお店を目指したいですね。有機や無農薬の素材を使っているので、ワンコインで買えるような手軽さは難しいかもしれないのですが、高くなりすぎないようにとは思っているので、好きなパンを買いに来てもらえたらいいなぁと思います。私もお店がオープンした頃に父親になって、子供たちが安心して食べることができるものを作っていきたいっていう気持ちが強くなりましたね」
そして、「夢かぁ、うーん」とほんの少し考えた後で、もうひとつの夢が。
「今の店舗では難しいかもしれませんが、いつかイートインができたらなぁ、っていうのはあります。以前から構想はあって、今もパン作りなどを手伝ってもらっている妻にコーヒードリップを修行してもらっていた時期もあって。自分のお店の中でおいしいコーヒーを飲みながら、休憩時間を過ごすのは夢ですね(笑)」
確かに、気持ちのいい店内で焼きたてのフォカッチャやバゲットを食べることができたら…… 想像と共にふんわり夢が膨らんだ。
MAISON KUROSU
住所:東京都世田谷区用賀4-18-20 プチモンド用賀
営業時間:10:00~18:00
定休日:日曜、月曜
ホームページ:https://maisonkurosu.studio.site/
Instagram:@maison_kurosu