後藤醸造
後藤健朗さん、由紀子さん
経堂駅からほど近い場所に、小さなブルーパブがある。店舗の半分は立ち飲みスペースで、もう半分の工場には、部屋いっぱいに醸造用のタンクが並んでいる。これにビールの原料となるホップや酵母などを入れ、かき混ぜたり温度管理したりしながら1ヶ月ほど発酵・熟成させると、おいしいビールができるのだそうだ。店の前に置かれた外テーブルでは、みな思い思いのビールを片手に日光浴を楽しんでいる。世田谷初となるブルーパブで造られるビールって、どんな味がするんだろう。うららかな日和に背中を押されて、のれんをくぐる。健やかな休日のはじまりだ。
文章:吉川愛歩
写真:阿部高之
構成:鈴石真紀子
子どもに伝えたいものづくり
後藤醸造を立ち上げた後藤健朗さんは、子どもの頃から植物に興味があったという。小学生の頃からホームセンターに通い、種や苗木を買ってきては庭に植え、ハーブや野菜を育てるのが好きだったそうだから、東京農業大学に進んだのは自然な流れだったのかもしれない。農大では農学部農学科に入り、台湾の先住民族であるブヌン族が利用している薬用植物についての研究をしていた。
「これがまたおもしろい研究だったんです。僕たちが知っているウコンや生姜など、現代の日本でもよく使われているものもあれば、口伝でしか残されていない薬草の使い方があったり、日本には咲いていない植物に出会えたりと、とても奥深いものでした。よく聞かれるんですけど、醸造科ではないんですよ。醸造について学んだのはその後。でも農大時代に植物についてたくさん勉強したことが、今とても役立っています」
植物や野菜のことを一通り学んだのち、就職は食肉の卸メーカーに決めた。しかし営業職を勤めながらも、「なんかやりたかったことと違う……」と、ぼんやり思う日々を過ごすことになる。
そのうち、農大の後輩だった妻・由紀子さんとの間に子どもが産まれ、後藤さんはもっとくっきりと自分の人生について考えるようになった。
「できたら子どもに、これお父さんが造ったんだよって胸をはって言えるようなものを、何かひとつでいいから造りたいと思いました。やっぱり自分の手で何か生み出したいなって」
そんなときに出会ったのが、クラフトビールだった。甲府駅前の商店街にあるクラフトビールの醸造所「OUTSIDER BREWING(アウトサイダーブルーイング)」と、そこに併設するパブを訪れ、これだと感じたという。
「ビールの醸造っていうと、大きな工場を思い浮かべていましたが、OUTSIDER BREWINGは、本当に街の一角の店舗で醸造しているんです。今でこそクラフトビールという言葉もさまざまなところで聞かれるようになりましたが、当時はまだ斬新な試みでした。こんなに小さなところでもビールが作れるのか……と感動したのを覚えています」
こんなふうに自分で醸造するにはどうしたらいいのかな。
健朗さんの気持ちはひさしぶりに高鳴った。それが、後藤醸造のはじまりだ。
世田谷初のブルーパブへ
妻の後押しもあって、健朗さんは神奈川県にある老舗の醸造所に転職した。日本での地ビール黎明期の醸造所で、健朗さんはここでビール造りに関するあらゆることを学んだという。
「クラフトビールの定義はいろいろとありますが、小さな醸造所で造られたビールのことをいいます。もとは地ビールと呼ばれていて、そこから繋がっているものなんですよ。地ビールは、地酒のようにその土地の名産やおみやげものとして発展していったもの。おいしいものを造る醸造所がある一方で、そうではないところもあり、残念ながらそれが“地ビールは美味しくない”というイメージになっていってしまったそうなんですね。でも、2000年前後からアメリカでクラフトビールの人気が出たことをきっかけに、日本でもおいしいクラフトビールを醸造するところが増え、認知度も高まっていきました」
後藤醸造がオープンしたのは2016年。一度ブームとなったクラフトビール人気がさらにじわじわと伸びはじめた頃で、まさに追い風だったと言える。
修行を終えた健朗さんは、妻とともに学生時代を過ごし、いちばん馴染みのあった経堂駅付近に絞って店舗を探した。
「経堂駅前の不動産屋さんに飛び込んだところ、この店舗が新築物件として出ていたんです。広さも場所も理想的で、ここならと思ったのですが、そんな規模でやる醸造所というものを、大家さんも見たことがないわけですよ。それで、こんなお店にしたいんですと言って僕が好きなブルワリーをいくつか資料としてお渡ししたら、大家さんが一つひとつそのブルワリーをめぐってくれて。そういうお店なら貸しましょうと許可してくれたんです」
晴れて後藤醸造開店かと思われたが、実はそこから醸造の免許を取得するまでに予想外の時間がかかってしまい、はじめはビアバーとしてオープンすることになったそうだ。もともと料理が好きで、家では常に料理担当という健朗さんがおつまみを作り、由紀子さんは裏方兼経理として働く日々。ふたりでお店を運営する、という計画ではなかったそうだが、自然とふたりで働くようになった。翌年にはようやく醸造免許を取得でき、オープンから1年半を経て、いよいよブルーパブとして再出発することになった。
春限定の卒業制作ビール
小さな醸造所のよいところは、やはりいろいろな味や香りのビールを小ロットで生み出せることかもしれない。もっとも後藤醸造では、ひとつのタンクで600本もの瓶ビールができあがってしまうのだから、そこまで気軽に仕込めるわけではないだろうが、健朗さんが遊び心を持ってビール造りを楽しんでいるのが伺える。
後藤醸造の顔ともいえる「経堂エール」は、シンプルな原料で造っているそうだが、しっかりとした苦みと深みがあり、個性的な香りがする。常時醸造している経堂エールの他にも、そのときどきで新しい味のビールを開発をしているので、新メニューを見るのが楽しみになる。
「今は、妻の実家の庭で採れたみかんを使った『みかんエール』を出しています。ほかにも、お店の常連さんが持ってきてくれたすだちで造ったり、これまた妻の実家で採れた湘南ゴールドで造ったこともありました」
また、後藤醸造に欠かせなくなってきているのが、アルバイトの学生たちが卒業制作として遺していくビールだ。
「1年目にアルバイトした卒業生たちが、自分たちのビールを作ってみたい! と言ったことからはじまって、今年で5年目になります。いろんな味のビールができて本当に毎年おもしろいし、毎回僕も勉強になっているんですよ。2021年はハバネロを使って、ちょっとピリッとするビールを造りました。2022年は酒粕やいちじくで、そして今年はラベンダーやミント、リコリスなどたくさんのハーブを使った『Herbs Bouquet』というビールを造りました。隣の小倉庵さんのたい焼きを入れたいって言った子もいたんですけど、さすがにそれはできないので、その年はあんこでビールを仕込んだり……。小規模だからこそ、思いついたアイデアをすぐ形にできるのがいいですよね」
卒業生たちのアイデアを実際に形にするのは、健朗さん。何をどのくらい入れるのか、どんな味に調節していくか、材料が変われば分量の見極めも大変そうだがレシピはなく、そのときの感覚で調整しているのだという。健朗さん曰く、料理をするときにちょっとおしょうゆを足したりしていくのと同じ、なんだそうだ。
そして健朗さんのクラフトビール愛を感じるのが、日本全国の醸造所から届くクラフトビール。取材の日は、大阪の「MARCA」という醸造所で造られたチョコレートのビールを飲むことができた。
「紹介したいと思う他の醸造所のビールも飲んでほしいので、いろんなところから取り寄せるようにしています。飲み比べセットも楽しんでもらえたら嬉しいです」
醸造所からはじまる地域の輪
さぞかし健朗さんは毎日ビールを飲む生活をしているのだろうと思いきや、実は日常にはあまりお酒が登場しないという。由紀子さん曰く、「飲むといったらはじめから終わりまでビールで、最後までおいしそうに飲んでいるけれど、家で飲むことはない」のだそう。
「そうなんですよね……。もともとは、親戚の集まりでおじちゃんたちがみんなビールを飲むじゃないですか。あれを見ていて、おいしそうだし楽しそうだなあと思ったところからビールが好きになったんですけど、普段はほぼ飲まないです。僕にとってビールはイベントごとで、特別なもの。だからうちのクラフトビールも、スペシャリティでありたくて。それもあって度数を高めに設定しているものもあります。でも一方で、日常的に飲んでもらいたい、気軽にのれんをくぐっていただきたいという思いもあるので、バランスのいいビール造りを心がけています」
そんな説明を聞きながら、由紀子さんが「わたしはまだまだ飲めない日々が続きます~」と言う。実は後藤家は今、第二子が生まれたばかりで忙しい毎日を送っているのだ。
お店のことはすべて健朗さんが担い、由紀子さんはしばらく育業中。「なんだかんだいろいろ任せてしまっていたので、ひとりでやるのは大変」と言いながらも、健朗さんはいつか2店舗目を出したいという大きな目標を目指して進んでいる。
「やっぱりたくさんの人に知ってほしいし飲んでほしいので、レストランで出してもらえたり、イベントに呼んでもらえるのは嬉しいです。小倉庵さんと共同開発したみたいに、コラボするのも楽しいですよね。三軒茶屋の大黒屋さんっていうおかき屋さんは、うちのビールに合わせて『クラフトビールにあうおかき』というのを造ってくれたんですよ。あとはフェアトレードタウン世田谷のイベントで、東ティモール産のコーヒー豆を使ったビールを造ったりもしました」
現在、世田谷代田にある農大ショップでは「経堂エール」の瓶が購入でき、農大のグリーンアカデミーで健朗さんが講義をするなど、農大とのつながりも活きている。農大時代の友だちもよく訪ねてくれるそうだから、ますます経堂愛が強くなりそうだ。
「今年も世田谷みやげの審査が通り、登録できました。経堂コルティや駅前でビール販売をするイベントに出ることもあるので、クラフトビールのことを知ってもらうきっかけを作ったり、クラフトビール業界を盛り上げる活動もしていきたいですね」
健朗さんがビールサーバーの取手を握ると、金よりも少し濃い、透明感のあるビールがグラスに落ちてきた。上がってきたきめ細やかな気泡は艶のある泡に閉じこめられ、喉に届くまでシュワシュワと小さく弾けている。この特別な味が、また明日のがんばりにつながりそうだ。
後藤醸造
住所:東京都世田谷区経堂2-14-3
定休日:月曜、火曜
営業時間:15:00~22:30(22:00 LO)/日曜 13:00~21:30(21:00 LO)
ウェブサイト:https://www.gotojozo.com/
インスタグラム:@gotojozo