おさだ
長田悠助さん
夕暮れ時、駒沢大学駅の西口からほど近い商店街を歩いていると、その一角に真っ赤なポストとオレンジ色の庇。その色合いがかわいらしくて、思わず目に留まる。なんだろうとガラスの奥を覗けば、カウンターに並ぶ人たちの背中。こちらに表情こそ見えなくても、心地よいひとときを過ごしている感じは十分伝わってくる。入口には、控えめな「おさだ」の看板。オープンからはわずか1年。曜日に関係なく常に多くの人が訪れる理由を知りたくて、思い切って扉を開いた。
文章:内海織加
写真:阿部高之
構成:鈴石真紀子
いつまでも美味しいを更新し続ける馴染みの料理
ほんの少しだけ重い扉をぐっとスライドさせると、カウンターの向こう側から店主の長田悠助さんと豪徳寺の招き猫が出迎えてくれた。和のテイストながらシンプルモダンな印象の空間には、昭和世代にとってはちょっと懐かしいランプシェードが吊るされ、初回からどこかほっとする感覚があった。
席に着くと、お通しに運ばれてきたのは季節の餡がかかった茶碗蒸し。さっそくスプーンでひとすくい口に運べば、やさしい味わい、やさしい温度、やさしい食感が、やさしく浸透してきて胃を温めてくれる。それは、大いに飲み食べる前の準備のようで、その気遣いに心まで温まる。
「お通しを茶碗蒸しにしようっていうのは、お店をはじめる前から考えていたんです。開店前に作っておけば、温かい餡をかけてすぐにお出しできるっていう良さもありますし、一人にひとつ出てくるよろこびってあるじゃないですか。最初に温かいものが胃に入るのがよいのか、みなさんびっくりするくらいたくさん召し上がってくださいます(笑)」
そう言って、長田さんは嬉しそうに目尻を下げる。
体も食べる準備が整ったのか順調にお腹が空いてきて、何をいただこうかとメニューを手に取ると、ほっこりとする手書きの文字で綴られているのは、馴染み深い居酒屋メニューのオンパレード。それらを端から順に目で追うだけで、思わずお腹がぐーと鳴った。文字から料理を思い描くことができるものを出すというのは、長田さんが大切にしていることのひとつ。
「メニューを見て想像できないものは作りたくなくて。意外な食材の組み合わせを提案するようなものは、ここでは出していません。唐揚げとか切り干し大根とか肉じゃがとか、一度は食べたことがあるようなスタンダードな料理がちゃんと美味しいお店でありたいんです。たまに、ここで料理を食べて昔の懐かしい出来事を思い出してくださる方がいらっしゃって。そういうのは、とても嬉しいですね」
数あるメニューの中でもファンが多いもののひとつが、「唐揚げポテト」。その名の通り、唐揚げとポテトフライがひと皿に盛られている、酒好きにも子どもにも人気のメニューだ。この唐揚げを一口食べて、そのジューシーさに驚いた。もちろん、唐揚げという料理自体はいろいろなお店で食べたことがあるが、ここのは何かが違う。変わっているというわけではなくて安心できる味なのに、とびきりの美味しさが口の中に広がって思わず声が出そうになる。感動していると、「唐揚げは研究してちょこちょこ変えているみたいですよ」と常連さんがこっそり教えてくれた。後からその真相を聞くと、「そんなこと言ってました?」とちょっと照れたように笑った。
「実は、唐揚げだけでも6回くらいは変えているんです。ガラッと変えているわけではなくて、粉の配分だったり調味料だったり、ちょっとしたところなんですけどね。自分だけがわかるくらいのマイナーチェンジを試みて、実際食べてみて美味しいと思えたらお客様に出します。そうやってより美味しいものを目指して変化させていく方が楽しいじゃないですか。今の唐揚げも完成というわけではなくて、これからも進化していくと思います。唐揚げに限らずどの料理も、常に更なる美味しさを目指して更新し続けたいですね」
お店の軸には、店主の好きなものと“あったらいいな”
フライドポテトも、今まで食べたことのあるものとはひと味もふた味も違う。外はカリッとしつつ中はほっくり、芋の甘味と絶妙な塩加減で危険なほどに箸が止まらなくなる。「これは、自分でもおいしいと思いますもん(笑)」と長田さん。聞けばこの一品は、専門学校を出て数年修行していたフランス料理店時代の先輩に教えてもらったレシピだそう。
「ムッシュヨースケで一緒に働いていた先輩が大船で『キュイエール』というお店をやっていて、そこで食べたフライドポテトがとても美味しかったんです。この店をオープンする前にそこで働きながら勉強させていただいていて、その時にやっぱり美味しいなと思って、先輩に『これ、パクりますね!』って宣言しました(笑)。とても手間暇がかかるのでコスパはいいとは言えないのですが、この食べ方が好きで。こんなに面倒くさいことをやってるの、先輩と私くらいじゃないですか?(笑)」
カウンターの隣でフライドポテトを注文した女性の、一口食べて思わず「うまっ」と漏れた声が耳に届いた。よくわかります、と心の中で同意した。
おさだのメニューは、麻婆豆腐にひと口の白飯が添えられていたり、ハムエッグごはんは白飯とハムエッグが二段になって、上には細かく切られた沢庵が乗っていたり、スタンダードとは言ってもさりげないサービス精神が添えられて、胃袋はもちろん心もがっちり掴まれてしまう。
「麻婆豆腐は、自分だったらちょっとご飯がほしくなりますし、一緒に食べた方が美味しいと思うので、少量の白飯を添えています。ハムエッグは朝ごはんのイメージですけど、夜にお金払って食べる感じが私は好きなんですよ。普通すぎるメニューなので、二段にしたら楽しいかなと思って。下に潜っている目玉焼きの黄身が潰れてご飯に染み出しているのがいいんです。マヨネーズを真ん中に絞って混ぜすぎずに一緒に食べるのがおすすめです」
料理もサービスも、おさだのベースにあるのは、店主が居酒屋に望む“あったらいいな”。
店内の奥に設けられた小さな座敷スペースにも、彼の理想を叶えるサービスが用意されている。それは、座敷限定の飲み放題プラン。このスペースには、冷蔵庫と棚にお酒が用意されており、スタートから2時間は、自分たちで好きなように飲み物を注いでいいというものだ。
「これは、独立前に学芸大学のいりこ家で店主を任されていた時から設けていたプランです。スタッフの労力が軽くなって忙しい時は店にとってもありがたいんです。酒好きには、目の前にあるお酒をなんでも飲んでいいっていう至福感ってあると思うんですよ。私もここで飲みたいですもん! だって、ビール飲みながら日本酒を楽しんでいいんですよ(笑)」
そう話す長田さんは、料理人というよりも美味しいものを食べお酒を飲むことが大好きという表情。そんな彼が、食べたいかどうか、あったら嬉しいかどうかが店づくりの大事な軸と知って、常にお客さんでいっぱいになっている理由がわかった気がした。
すべての経験を、実りのための栄養にして
長田さんのこれまでの経歴をお聞きすると、料理の手始めはフランス料理と聞いて驚いた。
「中学の頃に父が脱サラして、北参道で焼き鳥居酒屋を営んでいたんです。そんな父の背中を見ていた影響もあってか、高校卒業後は料理人を目指して専門学校に進みました。とは言っても、当時は特に料理が好きだったわけではなくて、授業中もよく居眠りをしていたんですけど(笑)。フランス料理を専攻した理由もおぼろげですが、当時はせっかくなら難しいことをしてみたいという気持ちがあったんだと思います。卒業後は、中目黒のムッシュヨースケで修行しました。仕事の一つひとつにとにかく厳しく、賄いもレシピを書いたものを見てもらって、OKが出ないと作らせてもらえない。今でもたまに当時の夢を見るくらい大変な毎日でしたが、最初に厳しく指導していただきながら経験をさせてもらったからこそ、今、頑張れていると思います」
すっかり和風な店内の厨房で料理をしている姿がすっかり板について、フランス料理を作っていたというのは少しだけ意外性があった。しかし、温かいお通しや居酒屋メニューに紛れたなすミートグラタン、汁物や分けにくい料理を1人分ずつ分けて出す心づかいを見れば、納得。作る料理のジャンルが変わっても、彼の“土”の中には、フランス料理の経験が今もちゃんと息づいている。
フランス料理から一変、和食や居酒屋を目指すことにしたのには、なにかきっかけがあったのだろうか。
「将来自分の店を持ちたいと思った時に、フランス料理の店を開くことが想像できなかったんです。ムッシュヨースケにいた頃はまだ父の店があり、そこを継ぐことも頭の片隅にはあったので、次第に日本食を学びたいと思うようになりました。父が好んで飲みに行っていたのが自由が丘で80年もの歴史がある『金田』。そこで、魚の捌き方から日本料理のいろは、居酒屋として多くのお客様にお料理を提供するための効率などを学ばせていただきました。ここに転職してすぐに、自分はやっぱりこっちだなと確信しましたね。この頃には、賄いを褒めてもらうことも増えて、ようやっと料理が楽しくなってきましたし、料理人っていい仕事だなと思えるようになりました」
金田での修行を終えた後、独立を意識する中で縁あって下馬の「しとらす」のオーナーと知り合い、学芸大学の系列店「いりこ家」を任されることになった。雇われ店長ではあったが、料理やサービスは長田さんに完全に一任されていたそう。ここでは、試行錯誤しながらも自身とも向き合い、目指すお店の形やサービスについて考えを明確にする時期でもあった。
「いりこ家を任せてもらった初期は、そこまで忙しくなかったので、お客様とお話しすることはけっこうあったんです。でも、あるタイミングで自分は料理人だから料理で心を掴みたいという気持ちが強くなって。あと最初の頃は、また来て欲しくてサービスで一品出すこともあったんですけど、自分を安売りしているみたいで営業後に惨めな気持ちになることもあったので、そういうことはやめようって。来てくださる方みなさんに同じことができないようなサービスはやりたくないですし、お二人で来てくださる方も多いので、あえて声をかけたり積極的にお話ししたりすることは控えて料理に徹するようにしています。いりこ家からずっと手伝ってくれているスタッフがみんな優秀で、お客様とのコミュニケーションも取ってくれるので、そこは安心して任せられますから」
カウンターの中にいる長田さんは、時折スタッフとのコミュニケーションでは楽しそうな笑顔を見せながらも、ただ黙々と料理を作り、次々に出す。1人で料理を作っている忙しさもあるのだろうが、あえて存在感のスイッチをオフにしているように見えたのは、あながち間違いではなかったのかもしれない。
店のあちこちに、力になってくれた人たちの心を感じながら
おさだが駒沢にオープンしたのは2022年7月。1周年を迎えたばかりの店内にはお祝いの品々が飾られ、すでに多くの常連客に愛されているのが伝わってくる。
「最初は学芸大学周辺で探していたんです。でも、なかなか物件が見つからなくて。もともと住まいがこの辺りなので、範囲を広げて探し始めた時に、出会ったのが写真の現像所だったこの場所。1階で、角で、1人でやるのにちょうどいいサイズ。駅の方から歩いてきたら店の灯りが見えるこの立地はあまりに理想的で、本当は飲食店以外を希望している物件だったのですが、いりこ家での様子や料理の写真をお見せして交渉しました。ゼロからの店づくりは、その大変さを知らなかったからできたと思うほどですが、今はそれも毎日の励み。あの時は大変だったけどよかったなぁって思いながら、毎日ここに立っています。駒沢にお店を出して、本当によかったです」
長田さんはそう言い切った。
ここを訪れる人々は、ご年配の夫婦や落ち着いたカップル、友だち同士の二人組やおひとり様、子ども連れの家族など、シチュエーションも年代もさまざま。ご近所の方も多いのだそう。そして、おしゃべりしながら飲んでいる方もいれば、1人で静かに本を読みながらお酒を味わっている方もいる。
いろいろなタイプの方がここでのひとときを楽しみに足を運ぶからこそ、ちょっとした配慮が必要なこともあると、長田さんはこの店を営む中で知ったと言う。
「小さなお子様連れの方は、20時までにしていただいています。私も父親なので、あまり夜遅くなるのは子どもにとってよくないと思うから。ゆっくり静かに楽しみたいお客様もいらっしゃるので、そういう方に配慮したいというのもあります。いずれにせよ、来てくださるいろいろなお客様の居心地のよさを守るために最低限の決め事みたいなものを作っておくことも必要だと思うんです。これは、気になることをきちんと指摘してくれたり、意見を交わすことができたりするスタッフのおかげで気づけたことでもありますね」
この1年を振り返ってどうですか? そんなことをお聞きすると、「つくづく人に恵まれているなぁって思うんです」と彼は呟いた。
「今のスタッフは、学大のお店から引き続き手伝ってくれている方ばかり。特に忙しい週末は、気心知れた常連さんがヘルプに入ってくれることもあります。それに、ワインのセレクトは、ソムリエをしているムッシュヨースケのマダムにお願いしています。修行時代にお世話になった方に、こうして月のワインの売り上げで頑張りを伝えられるのも嬉しいんですよね。店内の棚は木工作家の叔父が手作りしてくれたものですし、今は全部ではないですが陶芸家の姉が作った器を使っています。いずれは、器は全て姉の作品に統一したいと思っているんです。自分の周りには力になってくださる方がたくさんいるというのを、あらためて感じる今日このごろです。そういう方に、さらに応援してもらえるようなお店にしていきたいと思っています」
そういえば、料理の道に興味を持ったきっかけを聞いたとき、こんなことも話してくれた。
「私には姉が2人いて3人兄弟の末っ子。子どもの頃から家族での外食というと居酒屋に行くことが多かったんです。居酒屋にいる人たちは、私の家族も含めてみんながとても楽しそうだったのをよく覚えていて。高校時代にやりたいことも特になくて、どうしようかなーと思った時にふとそれを思い出して、料理の専門学校行こうかなと思ったんです」
彼を料理の道に導いたのは、幼少期の記憶。幼き眼に映った幸福感に満ちた光景を、今、大人になった長田さんは厨房から眺めている。
おさだ
住所:東京都世田谷区駒沢2-31-1
営業時間:17:00〜24:00(22:30LO)、土日祝15:00〜24:00(23:00LO)
定休日:水曜
Instagram:@osada_komazawa
(2023/07/27)