きさらぎ亭

横山茜さん

最寄り駅
桜新町

東急田園都市線の桜新町駅を出て、用賀方面に歩いていくと、左手に落ち着いた佇まいの定食屋「きさらぎ亭」があらわれる。こぢんまりとした店内は、いつだってお客様が絶えず訪れるほどの人気ぶりだ。できたての温かい定食を求めて、人々は日々ここをたずねる。開店から46年。常に変わらない、懐かしさすら感じられる味わいを届けるのは、先代であるお父様から店を受け継いだ、二代目・店主の横山茜さん。桜新町に佇むふるさとを守るため、彼女はどんなことを考え、店に立つのか。その意思を尋ねるため、取材に伺った。

文章・写真・構成:鈴木詩乃

46年間、変わらない定食を届けてきた

春になると桜の並木道で彩り豊かになる桜新町。漫画『サザエさん』でも知られるこのまちは、いまや話題の飲食店などを目がけて若者が集う印象を持たれることがしばしばある。ところが、もともとの桜新町は、そういった新店が連なる話題のエリアとしての要素だけではなく、昔からこのまちに暮らす人々で織りなされた情緒あふれる一面も持っている。

「きさらぎ亭」は、その代表例だといえる。創業からは46年、二代目・店主である横山茜さんのお父様が生みの親だ。茜さんは、その意思を受け継ぐかたちで、現在お店を支える柱になっている。一度、お店のリニューアルを経験している(理由は後述)ものの、ずっと桜新町に暮らす人をいたわり、和ませてきてくれた。

きさらぎ亭に訪れるお客様は、ほとんどが地元の人。そして、ほとんどがリピーター。学生、サラリーマン、ファミリーまで、世代や性別に関係なく、一度訪れたお客様をリピーターにしてしまうだけの強さがある。その理由は、王道であり、至高の定食にある。

「創業したときから、父は『おなかいっぱいに食べて帰ってもらいたい』そう言いながら料理をつくっていました。だから、サラダも、ごはんも、てんこもり。フルーツもつけちゃう。たっぷりと食べて、満足してもらえるようにと、味にも量にも妥協しない定食をつくってきました」

お茶碗を手に持ってみると、片手で持つには不安定なほどの大きさのものだった。そこに、文字通り、山盛りにごはんをよそう。食卓にならぶごはんの量と比較すると、二倍はあるだろう。それが、きさらぎ亭の“ふつう”なのだ。そんな、おなかも心もよろこぶ定食を求めて、おなかを空かせた人々は日々この店を訪れる。

「そうはいっても、時代が変われば食材の原価も上がってきてしまうものなので、大変です(笑)。その高騰に抗うように、なんとかギリギリまで定食の金額は据え置きでがんばっています。なるべくお手頃な価格で、たっぷり食べてもらいたいっていう考えも、父から引き継いだものです」

メニューは、茜さんの代に変わってから4種類ほど増えている。“大人のおこさまランチ”をコンセプトにしたトリオ定食A・B、カレイの煮付け定食、もつ煮込みカレーがその例だ。いずれも、より幅広い層のお客様に食事を楽しんでもらいたいという思いから新しく生まれたもの。新店舗に移って以降、つくるのをやめたメニューはない。定番メニューは一人ひとり異なるものだからこそ、つくり続ける、すなわち「やめないこと」を基本に据えている。きさらぎ亭は、いつだって普遍的な存在であろうとしているのかもしれない。

腕一本で勝負する世界に向いていた

きさらぎ亭の二代目の顔として店を守る茜さん。お店を継ぐために40歳で幼少期を過ごした桜新町へと戻ったが、それまでは大阪で暮らしていたのだそう。これまでの歩みを尋ねてみると、その半生は実にユニークなものだった。

「4歳からね、ずっとバレエを習っていたんです。それがすごくおもしろくて、楽しくて。これを仕事にしたいっていう思いから、将来はミュージカル俳優を目指そうと決めていました。ただ、当時、ミュージカルを専門に学べる場所はなかなかありませんでした。唯一、それが叶うのが大阪芸術大学だった。18歳までこっちでバレエを学んで、大学進学と同時に大阪にわたりました」

「桜新町にもう飽きていて、外に出たかったっていうのもあるんですけれどね(笑)」と、茜さんはチャーミングに微笑む。無事、大学でミュージカルを専攻したが、芸術大学に進学したことがきっかけとなり、「絵画モデル」という仕事に出会った。それが大きな転機となった。

「美術大学や美術予備校、絵画教室などでは、人物デッサンをするために絵画モデルと呼ばれるモデルさんを呼んで、そのモデルさんを被写体に描く訓練をするんです。機会があってその仕事を始めてみたら、すごく自分に合っているなと感じて……。一つの空間で、モデルと描き手が言葉に頼らないコミュニケーションを通して作品をつくりあげていく感覚に魅了されました」

大学卒業後は、モデルの派遣会社に籍を置き、描く人間のいる場所に出向く日々を過ごした。当初の目標だった芝居の仕事も経験しながら、自分自身の生き方を確立するようになった。働くなかで気づいたのは、実力や結果のみで評価されていく仕事に対して強いやりがいを感じる茜さん自身の特性だったという。

「自分の仕事ぶりが人に喜んでもらえるものだったら次の仕事をいただけるし、そうでなかったらもう呼ばれない。そういう、シンプルに腕だけで勝負するっていう世界がすごく自分には向いていたんですよね。きさらぎ亭での仕事もそう。おいしいと思ってもらえたら、またお客様は来てくださる。だからこそ、手は抜けないしがんばらなくちゃって感じられるんです」

大学時代に出会った劇作家の男性と結婚、子どもにも恵まれた。大学進学以来、大阪で暮らし続けていたが、40歳で地元・桜新町にもどり、きさらぎ亭を継ぐことを決めた。きっかけは、東日本大震災の発生だ。

「当時、母は65歳、父は78歳。ずいぶん高齢になっていました。このまま、ここを続けていくには大変な頃合いだろうと感じていましたが、愛されてきていた店をなくすわけにはいかない。店を継ぐため、家族で桜新町へと帰ってきました」

初代であるお父様は、職人気質な人だった。娘の申し出を受けても「お前にできるわけがない」とその提案を一蹴。ところが、強い意思で舞いもどった茜さん。お父様ゆずりの強い信念で、料理をおぼえ、段取りを身体に染みこませ、きさらぎ亭・二代目の顔となった。

「子どもの頃から店で働く両親を見ていましたし、わたしも夏休みや冬休みは店の手伝いをすることも少なくなくて。父は厨房に人を入れたくないっていうタイプだったので、なかなか料理を隣で手伝える機会はなかったんですけれどね。背中で語る父の姿を見つめながら、自分なりに店を受け継ぐ準備を進めていきました」

きさらぎ亭を救った、クラウドファンディング

茜さんが桜新町にもどってからほどなくして、きさらぎ亭は岐路に立たされていた。創業以来、ずっと営業を続けていたビルが老朽化の影響で取り壊されることになったためだ。立ち退きを迫られた茜さんは、あるアイデアで店を続ける方法を模索していた。

「クラウドファンディングに挑戦してみようか、と思ったんです。きっかけは、夫と話しているときに提案してもらったこと。このご時世なら、もしかしたら支援していただくことができるかもしれないな、と。立ち退きは目前まで迫っているタイミングだったので、このままなにもせずに閉店をむかえるくらいなら、可能性にかけてみようと思い決断しました」

クラウドファンディングという、はじめての挑戦。たまたま常連のお客様の一人がクラウドファンディングプラットフォームの担当者だという縁があり、立ち退きを一週間後に控えたギリギリの時期にクラウドファンディングを開始した。

「正直、支援していただけるだろうかという気持ちでいっぱいでした」と、当時の不安だった心境を茜さんは吐露する。ところが、そんな心配は杞憂だった。

クラウドファンディングのプロジェクトを公開して、一週間。すなわち、閉店日の当日に目標金額だった80万円の支援を達成することができた。立ち上げたクラウドファンディングが終了する頃には、さらに上乗せされ、196万円を超える支援額が集まったのだ。支援者は189人、そのほとんどが、きさらぎ亭をこよなく愛する新旧の常連客だった。

「お店にクラウドファンディングのおしらせを掲載していたこともあり、日頃から通ってくださっているお客様が数多く支援してくださいました。なかには、支援方法がわからないけれど応援したいからと店に募金してくださろうとするお客様まで現れたほどで。これまでもきさらぎ亭は日々お客様に支えられているなと思ってはいましたが、クラウドファンディングを実施したことで、そのことを改めて実感させてもらいました」

旧店舗の閉店から約一年後。以前の店舗から歩いてほどなくの場所に、生まれ変わったきさらぎ亭が誕生した。外観こそ新しいものの、料理のボリュームも器もそのままに、創業当初からの変わらない意思を継承している。

愛される理由を守り続けたい

桜新町で人々の心を満たし続けてくれている、きさらぎ亭。受け継いだ者として、茜さんは店の未来をどんなふうに夢見ているのか。その真意を尋ねてみると、そのこたえは素朴なものだった。

「両親が培ってきた、店の軸を守ること。それに尽きると思います。幼い頃からわたしの暮らしにはきさらぎ亭がありましたが、当時から本当に愛されていた店でした。それはつまり、父が生み出した味がたしかなものであり、多くの人に必要とされてきたことのなによりの証。だからわたしは、それをずっと守っていきたいんです」

進化の激しい時代のなかで、淡々と、おいしさを突き詰めるという道を選んだ。なぜなら、きさらぎ亭が唯一無二の店として46年間愛されてきた理由が、そこにあるから。

クラウドファンディングを実施した際のプロジェクトページをひらいてみると、末尾にはこんな言葉が書き添えられている。

“まるで実家のように、ふらっと帰ってこれる。それが「きさらぎ亭」の魅力なのです。”

個人店がだんだんと少なくなっているこのまちで、いつだって実家のようにもどれる場所があること。それが、このまちで過ごす人にとってどれだけ心強いことだろうか。彼女がお客様を見送る際に発する「ありがとうございました〜!」という朗らかな声に、どれだけの人が励まされてきただろうか。

だから茜さんは、そんな日常を守るために、今までもこれからも変わらない味で人々を迎え入れ続ける。桜新町に佇む、唯一無二の“ふるさと”として。

きさらぎ亭
住所:東京都世田谷区桜新町1-40-10
営業時間: 11:00〜16:30(15:45 LO)/17:00〜22:00
定休日:日曜、祝日、水曜(祝日のある週の水曜日はオープン)
X:@kisaragitei
インスタグラム:@kisaragitei

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