飯田果樹園
飯田勝弘さん
用賀駅と桜新町の中間あたりに、1720坪という広大な農園がある。7月下旬、木々は脈々と枝を伸ばして葉を繁らせ、ぶどうを実らせていた。住宅街にこんなに広いぶどう園が、と言うと、この農園を作り上げた飯田さんが「もとは農地ばっかりで、住宅が後から来たんだ」と笑う。飯田家がこの土地に移ってきて450年。代々農業をなりわいとして営んできたが、昭和30年ごろから宅地開発が進み、周囲は住宅街に。農家を取り巻く環境は、ずいぶんと変わった。そんなこの世田谷で初めてぶどうを育て、40年以上守り続けている飯田さんのもとへ、話を聞きに出かけた。
文章:吉川愛歩 写真:阿部高之 構成:鈴石真紀子
世田谷にできた初めてのぶどう園
夏真っ盛りの夕方。飯田さんのぶどう園にお邪魔すると、木々の間からパチンパチンと小気味よいハサミの音がした。袋がけされたぶどうに頭がぶつからないよう、中腰になって畑のなかをゆっくり見せてもらう。ぶどうの木からいったいどうやって枝が分かれているのか、外から見るとよくわからなかったのだけど、飯田さんが「しゃがんで見てみたらいい」と言うので、座ってみる。
すると、ごちゃごちゃと絡まった配線のように見えた枝が、ひとつの木から放射線状に正しく伸びているようすが分かった。葉の間からは、等間隔に空が見えた。
「ぶどう一房につき、22枚から25枚の葉を残しておくの。考え方はいろいろあって、葉が少なすぎると日当たりがよくなりすぎるとか、多すぎると畑が暗くなりすぎるとかあるけども、俺の場合はそのくらい。どのやり方が正解っていうのはないから」
現在、世田谷区にあるぶどう園は全部で14。世田谷で初めてぶどうの木を植えたのは飯田さんで、当時は「このあたりの火山灰土壌でぶどうなんて無理に決まっている」と冷たい目で見られることもあったらしい。
「でも、難しそうだから決めたの。へそ曲がりなんですよ。ぶどうは高く買ってもらえるし、やれないって思われていることを実現できたら楽しいじゃない。果樹は育てるのに時間がかかるし手間もあったり、収量を制限しないと実の質が上がらなかったりいろいろあるけど、7年目にはもともと作っていた野菜の売り上げを超えることができて、それは嬉しかったですね」
もともとこの土地は、野菜名人と名高かった飯田さんのお父さんの野菜畑だった。野菜農家として長く活躍してきた飯田家は、ぶどうの売り上げの伸びとともに、ぶどう園としてシフトしていったのだった。
天才と呼ばれた父の隣で
飯田さんが実家に就農したのは、1978年のこと。いつか自分が継がなければ、と分かっていながらも違う経験をしたくて、農大在学中に休学し、農業開発の手伝いとしてフィリピンに実習生として滞在した。
「最初は現地の稲作農場に入って、手伝いや指導をしました。専門は野菜だったので、空いている田んぼでトマトやナスを作れるようにしたりとか。東南アジアの土壌は育ちにくいところもあるんですが、一年中気温があまり変わらないから、日本と違っておもしろかったですよ。お米もあっという間に収穫できてしまう。収穫の日が来ると、給料の代わりとして来てくれた人に収穫の1割をあげるんです。だから子どもも奥さんもみーんな来て、わーってみんなで収穫して……。英語と、現地のセブアノ語を混ぜて話しながらコミュニケーションをとって、エレメンタリースクールで農業の講義をしたりもしていました」
当時は、種まきから収穫までほとんど手作業ですべて行っていた、というのが日本と大きく違うところかもしれない。
「トラクターで田起こしすることくらいはあるんだけど、機械はなるべく入れない。なんでかというと、そういうのを導入しちゃうと雇用が減ってしまう。当時の開発は、雇用の創出や、現地で賄える資材と労力で栽培できる技術の定着が大切な目的ですから、オペレーターにするのではなくて、日当を払って手作業して技術も習得してもらう。当時の日当が7ペソだったんですけど、だいたいギリギリ暮らしていけるくらい。お米が1キロ1ペソくらいだったから、本当にギリギリなんだけど」
そうして1年半ほどの海外生活を経て大学を卒業したのち、いよいよ実家の農園に就農した。
飯田さんのお父さんは、市場でも一目置かれるような存在で、農大の先生からも「お前のお父さんは野菜の名人だから追い越すなんて難しい」と言われたほど。そんな父親のもとで自分に何ができるのか、飯田さんは必死に考えた。
「父のもとで同じ野菜作りをしても、どうやったって勝てないんです。最初の一年だけは敬意を表して、父親の野菜の技術を勉強させてもらったんですけど、2年目になって恐る恐る『果樹やりたいんだけど』って言いましたね」
チャレンジした先に
そして45年ほど前、畑の一部を任され、ぶどうの栽培がはじまった。初めて植えたのは、東京都の農業試験場で育成された「高尾」という品種。酸味が少なくて甘さが際立つ、ラグビーボールのような粒形の品種だ。
「農業試験場の先生にぶどうのことを教わりに行ったので、先生が育成したぶどうを植えたくて。高尾は巨峰よりもひとまわり小さい粒だけど、タネなしなんですよ。当時のタネなしぶどうっていったらデラウェアくらいしかなかったから、巨峰までいかなくてもあのくらいの大きさの粒感でタネなしなら人気が出るんじゃないかって、将来性を感じていました。もうひとつはピオーネ。ピオーネも当時は種ありが主流でした。その後、タネなしピオーネを作るのに成功したんですけど、全国でも早いほうでしたよ」
ぶどうを植えたものの、当時の飯田家は野菜の収穫が中心。飯田さんはお父さんとともに野菜の仕事をしながら、空いた時間を使ってぶどう栽培を続けた。夜は頭に懐中電灯をつけてぶどうの手入れをし、一日中畑で作業していた。
その甲斐あって、ぶどうの売り上げはぐんぐんと伸び、7年目にはお父さんからは「ぶどうを増やして野菜を減らすか」と言ってもらえたという。そこからぶどうの栽培面積を増やし、今の倍ほどの面積でぶどう園がはじまった。
「俺が始めたときはみんな様子見だったんだけど、ぶどうって売れるじゃん、みたいな感じで続いてくれた人が 2〜3人いて、それからまた増えて、最高で18園ぐらいまで広がったんです。今は14園で落ち着いてるけど、世田谷ブドウ研究会っていうのを作って、いろんな情報交換しながら今もやっています」
飯田さんのぶどう園では今、食用のほかにワイン用のメルローを作っている。2007年に初めて植えてからワインを作りはじめ、今年で17年。1年でだいたい700〜800本分くらいのワインができあがるという。
「ぶどうの木って、死ぬっていう遺伝子がないんですよ。新しい木は、収量は多いけど、10年くらいたたないとポテンシャルが出てこないと言われています。若いうちは、どんどん木を大きくしようと成長していくんですね。だから実をつけても、あまりそちらに栄養がまわらない。でもある程度育ち切ってしまうと、今度は子孫を残すために実のほうに気持ちを向けてくれる。環境が整っていれば、100年でも生きられるんです。人間と同じですよね」
守っていく、ということ
赤ワインを造りはじめて17年。年々成熟しつつあるものの、飯田さんはまだ納得がいっていないという。
「やっぱり造るからには、褒められるような味になるところまではがんばりたい、という思いがあるんです。たとえば何かで表彰されるくらいまで、味が認められたらいい。まだまだそこには遠いので、これからもっと研究していきたいです」
しかし、赤ワイン用のぶどうは昨今の気温上昇にとても弱い。飯田さんの肌感覚としては、この30年で天候がすっかり変わってしまったという。
「ぶどうのアントシアニンがいちばん合成されやすいのは、25〜30℃くらいなんです。この温度帯で時間経過することで、ぶどうに色がついてくるんだけど、今みたいに夜でも30℃みたいな日が続くと、アントシアニンが生成されなくて、色がなかなかまわらない。ぶどうが緑色のまま黒く色づかなくなってしまうんです。30年前は、30℃でも猛暑だったでしょう。それが今では32℃だと涼しいくらいで、毎日35℃超え。ゲリラ豪雨なんてあんなに雨が降ることも昔はなかった。本当に変わってしまって、農業は今、大変なときを迎えていると思います」
そんな暑い日に朝から作業するのも大変だ。食用ぶどうのほうは、8月下旬にぶどう狩りの日を設け、もぎ取り販売をするので収穫はしないが、そこに至るまでの世話と袋がけが必要になる。ワイン用のぶどうには袋がけしないものの、早朝から1日ですべてを摘み取らなくてはならない。
「だらだらやっていると、高温でどんどんぶどうが傷んでしまうから。午前中のうちにすべて収穫してそのまま山梨に持って行って、すぐ仕込んでもらうんです。今年売るワインのぶどうは、去年収穫したもの。ぶどう狩りの日に売ったり、ホームページで宣伝して自宅で販売しています。」
畑に向き合ってきた40年余り、ぶどうの成長はめざましく、できあがる感動はひとしおだったが、一方で、都市農地や都市農業に対する政策は目まぐるしく変わり、不信感を募らせてきた時間でもあった。
「今、食糧安全保障とか、食料自給率などの観点からも、一次産業の持続可能性が問われています。都市農業振興基本法にも“都市に農業は必要だ”と謳われてはいますが、次の世代が受け継げるような農業政策にはなってない。税金の問題も大きいし、子どもたちが農業やりたい、というふうに思えるような現状でもなければ、継いでほしいと堂々と言える環境でもないんです。世田谷のような都市農業は地価が高いこともあって、地方の農業とはまた違った問題もあります」
都市農地は、生産緑地制度などにより固定資産税等が減免されている。ところが実際はとても危うい制度で、都市農地を保全するというより、都市計画上の都合が優先している、と飯田さんは言う。
「昔からの経緯を知る人が少なくなってしまい、危機感があまりないようです。制度や法律を受け入れ活用するのは大切ですが、やっぱり農家も農家なりに勉強が必要ですし、もっとしたたかにならないと。農協の会長に就いていたときはいろいろと活動もしたけれど、個人で言っても意見を拾ってもらえることなんて、まずない。政策も法律も、そのときの政府の都合で変えられてしまいます。現状は、都市農地は都市計画上の優良ストックという位置づけだと思います。いつどう変わってもおかしくない、うまく静かにやっていってるわけです。わたしだって、やる気のない人まで巻き込んで農業やりなよって言うつもりはない。でも、これからの未来を担いたい、やる気のある人たちが継続できるような形にしていかないと、本当に都市農業は衰退してしまうと思います」
ぶどう狩りの日は、ちいさな子どもを連れた人たちが朝から大行列を作り、暑いなかでもみんなにこにこしてぶどうを狩っていた。ぶどうがこんなふうに実をつけること、ハサミで枝を切ったときの感触、抱っこしてもらいながらぶどうを目の前にしたときのこと……、きっと経験した子どもたちは覚えているだろう。
その子たちが大きくなり、このときのことを思いだしてまた子どもを連れてくる。そんなふうにこの土地でずっと、ぶどう狩りができるように。飯田さんはまた来年のぶどう作りに向けて、今日もがんばっている。
飯田果樹園
住所:東京都世田谷区用賀2-7
ウェブサイト:https://iika-gen.wixsite.com/iidavineyard
ぶどう狩りは例年8月中旬から下旬にかけて。ワインの販売とともに、ホームページでお知らせしています。