nostos books
石井利佳さん
ここ最近話題になっている「松陰神社前ブーム」。松陰神社商店街に増える若い世代の新しいお店の出店、そのきっかけとして挙げられるのは、古書・古本をメインに扱う「nostos books」の存在だ。グラフィックやウェブデザインの現場で活躍してきた二人が始めたnostos booksは、主にデザインやアート関係の本、写真集などを扱う古書店。彼らはなぜこの地を出店の場所に選んだのだろうか。ほぼ毎日店頭に立ち、カウンター越しに街を見守り続ける店長の石井利佳さんが、その経緯と今感じていることを語ってくれた。
文章:伊藤 佐和子 構成:加藤 将太 写真:豊島 望
松陰神社前との出会いは突然に
東急世田谷線松陰神社前駅を降りて商店街を40メートルくらい南下すると、あたりを見回すまでもなく目の前にガラス張りのお店が現れる。暖かい灯りがもれる店内を覗き込むと、本の群れが迎えてくれる。今ではこの街の代名詞のひとつともいえるnostos booksだが、テナント物件を探していた2013年当時、オーナーの中野貴志さんも店長を務める石井利佳さんも、松陰神社前という地域をまったく知らなかったという。
「実は三軒茶屋から世田谷線のエリアには足を踏み入れたことすらなかったんです。すでに踏切の反対側で『STUDY』を始めていた鈴木さん(鈴木一史、埴生の宿代表取締役社長)のことを知人から紹介していただいて、物件が見つかる前から内装の相談は始めていて。一緒に三軒茶屋、恵比寿、渋谷方面など、このあたりよりも都心寄りで物件を探していたんですが、ピンとくる出会いがなくて頭を抱えていた頃に、松陰神社前にひとつ物件が空いたことを教えてもらったんです。それがこの場所でした」
当時を振り返って笑いながら語る利佳さん。初めて耳にする地名に、街の様子も関係性もまったく見当がつかないまま足を踏み入れるのには勇気がいる。でも、愛嬌あふれる佇まいの世田谷線に乗って、車窓からの景色を眺めていると、心が動き始めたのだった。
「『一体どんなところなんだろう?』と思いながらも、鈴木さんが『いいところ』って言っていたから、まずは行ってみることにしました。最初に降り立ったときは、「あれ、ここは本当に東京?」というのが第一印象でしたね。歩いてみると若い方も年配の方もたくさんいる不思議なバランスの街で、全体的に明るい印象でした。はじめてお店を開くのだから不安もそれなりにあったけれど、すぐにこの場所を気に入って、決めてしまいましたね」
実態のあることを能動的に始めたかった
もともとグラフィックやウェブのデザイナーとしてそれぞれ活動していた中野さんと利佳さんは、実際に出会う前にネット上でお互いの活動を知り、関わりが始まった。
「中野さんが以前やっていたTシャツをデザインして販売するサイトなどの活動を、当時住んでいた静岡から見ていて楽しそうだなあ、東京ってすごいなあと思って見ていました。そうこうするうちに直に会う機会があって、何度かその活動に参加するうちに、お互いに本そのものや、装丁・プロタクトという面、そして本屋さんという空間自体が好きだという話から、『本屋やらない?』と、唐突に始まっていきました」
ウェブサイトをつくる仕事というものは、自分たちが手がけた成果物に実態として触れることはできない。それを仕事にしていた二人がモノを扱い、受注仕事ではなく自分たちから能動的に何かを始めるという経験を求めることは、ある意味必然だった。
「今後もウェブの仕事を続けていくにあたり、実店舗の運営経験が必要になってくるという思いが漠然としてあって。並行することで今まで以上の仕事が手がけられるようになるはずだし、こうして場所を持つことでいろんな方が集まってくれたり、お会いしたりする機会が増えるだろうというような複数の動機がありました。それで、お互いが共通して好きだった“本”を扱うお店を始めることにしたんです」
飛び火する興味を広げ続ける場所に
実店舗が誕生する1年前に、まずはウェブストアのオープン、イベント出店からnostos booksは動き出した。デザインに携わる二人だったから、デザイン書や写真集、アート・カルチャー系の選書が構成の中心になることも自然の流れだったが、かといって強くこだわっているわけではない。
「ものすごく専門的なお店をつくるという意識が強いわけではなかったんです。興味って飛び火するじゃないですか。デザインからスタートしてもいつの間にか音楽に結びついたりして、それがどんどん広がっていくのが面白い。基本はデザインや写真関連の本が多くあってもそこから派生するものはふわっとしていて、ごしゃごしゃっとしたお店にしたいと思っていました。それなら住宅地が近くにあって、渋谷のようなみんなが買い物をする街じゃなくても、もしかしたらいけるんじゃないかと思って、よりこの場所への期待が強くなりました。今思えば怖いもの知らずなところもありましたね(笑)」
オープン1年目から雑貨の販売も始め、ヘリンボーンの壁面の本棚を中心に友人・知人のクリエイターの作品を展示販売するようにもなった。また、先日のボロ市特集で紹介したKONCOSのインストアイベントも2度開催。そして昨年末には、中野さんと石井さんが装丁を手がけた新刊の詩集『誰もいない闘技場にベルが鳴る』(後藤大祐著・土曜美術社)も発売となった。
そんな古書プラスアルファの要素を模索してきた3年目の今、次のステップとして取りかかったのはウェブストアのフルリニューアルだ。実店舗と並行してウェブストアを運営し続けてきたことはnostos booksの大きな強み。ただ使いやすさを求めただけでなく、特集形式でオススメ本を紹介するようにもなり、もっとウェブサイトを訪れるユーザーとコミュニケーションをとりたい気持ちを感じた。取材当日もウェブに掲載されていた商品に関する問い合わせで電話が鳴っていたり、店で会計を済ませた近くに住むお客さんが一言「この店ができて嬉しいんです」と声をかけていたり、確かな交流を目の当たりにした。
「『こんな本はないの?』と声をかけてくださるお客様も多く、逆に教えていただくことがありますね。買い取りもやっていることで、意図しない本との出会いもあります。お客様に提供できる幅も広がったけど、お店としても選書の幅が広がるだけでなく深まりました。これは古書店ならではの面白さのひとつだと思いますね。ウェブストアを並行して運営していることで、遠方にお住まいで利用してくださっている方が、東京に来たついでに立ち寄ってくださるという嬉しいこともありますし、最近ではそういった遠方からお越しくださる方がこの街自体に増えている印象があります」
すっかりこの街の住人になっていた
商店街を行き交う人の流れを、毎日この場所から眺めているからこそ感じる変化。いちクリエイターとしての顔も持つ利佳さん自身には、何か松陰神社商店街から受ける影響はあったのだろうか。
「それまでは基本的に家にこもってひとりで黙々と制作をしていた人が、いきなり店に立って大丈夫なのだろうかという不安もありました(笑)。3年近く経ってようやく肩の力も抜けて、会話を楽しめるようになってきましたね。お店の反対側は制作会社としてのスペースになっているのですが、作業をするときもひとりじゃないからアイデアに行き詰るというようなことも減ったし、お店に立つことと制作に打ち込むことの切り替えが上手くなった気がします」
実は利佳さん、お店の看板息子である愛犬・モグーとともに、世田谷ミッドタウンの住人でもある。nostos booksを開くまでまったく知らなかった地域だが、今ではすっかり魅了されている。
「ここが居心地よくて、あまり外の地域に出て行かなくなっちゃいました(笑)。休日には世田谷文学館に行ってみたり、経堂方面や三軒茶屋方面まで目的もなくふらふらと歩きながら、小さなお店を見つけることも楽しみのひとつです。それから住宅を見るのが好きなので、年季の入ったお家やすごく素敵な建物が多い世田谷は歩き甲斐がありますね」
誰かの小さなきっかけになり続けていたい
nostos booksも、誰かにとって、そうやってふいに見つけたことが嬉しくなるお店だ。特に古書店は在庫があるわけではないから、その時に出会ったものはものすごい確率の上で手に取っていることになる。最後に、利佳さんにとって印象的な出会いとなった1冊を紹介してもらった。その本とは1980年に発行された『地下都市への旅』(海野弘著・青土社)。
「実はこの作品は買い取りで出会った1冊なんです。手に取って、すぐに装丁も気に入りました。海野弘さんは編集者や評論家、そして作家として、都市論、文学、音楽、映画など、幅広い分野の執筆をされている方で、この作品は“都市”をテーマに、いろんな街のいろんな話を、例えば美術や写真のことを織り交ぜたりして、普通の旅行記ではない視点で語っています。やっぱり私は興味があちこちに飛び火して、思わぬ方につながっていくのが好きなのかもしれません(笑)。こうして毎日ここに立っていることで、自分たちの興味を広げてくれることが日々思いがけなくやってくる。お客様にとってもそういう場所であるように、店づくりをしていきたいですね」
想定していなかったことが舞い込んでくるから、人生は楽しい。知りもしなかった街に出て店を始めたことで、利佳さんにとってもたくさんの変化や出会いがあった3年だった。nostos booksのウェブストアも松陰神社前の実店舗も、これからもっと進化していくだろう。誰かの何かのきっかけとなり続けることを目指して。
nostos books
住所:東京都世田谷区世田谷4-2-12
※2021年に移転
〈移転先〉
住所:東京都世田谷区砧5-1-18
営業時間:13:00〜18:00(実店舗は土日のみ営業)
ウェブサイト:https://nostos.jp/
(2016/01/25)