食堂めぐる
宇都宮奈津美さん
松陰神社前駅を降りて、松陰神社方面へ歩いて行くと、大人気のお肉屋さん「染谷」が見えてくる。その斜め向かいに、2017年3月8日、新しいお店がオープンした。元は50年以上営業していたという美容室だったが、今では家庭料理を出す小さな食堂に生まれ変わった。店主の宇都宮奈津美さんが作るのは、とんかつ、お刺身、唐揚げ、オムレツなどの“普段のごはん”。「今日のメニューは何だろう?」。楽しみにしているお客さんのために、宇都宮さんは、今日もキッチンに立つ。
文章:薮下佳代 写真:志鎌康平 構成:加藤将太
「いただきます」の声が届くカウンター
小さな看板には、大盛りのごはんを持った招き猫のイラストと「食堂めぐる」の文字。この看板がなかったら、一体何のお店なのかわからないかもしれない。レトロな擦りガラスで中はまったく見えないため、入る時、少しドキドキする。
取材の待ち合わせの時間ちょうどに店内へ。「ボーンボーンボーン」と古時計が時間を知らせてくれた。まるで、おばあちゃんの家に来たような、なんとも不思議な懐かしさ。ここは、もともと美容室として営業していた築50年以上の店舗を極力活かして改装。その古さを感じるからか、不思議と落ち着くのだろう。
奈津美さんは、夜の仕込みの真っ最中。「どうぞ」と出してくれたお茶は長崎県産のびわ茶で、香ばしくて、とてもおいしかった。鶏の手羽元をコトコトと煮ながら話をしてくれた。
「この商店街をまっすぐ行った世田谷線の線路の向こう側に『ラ・ゴダーユ』っていうビストロがあるんです。友人のお店なんですが、去年の3月にシェフがケガをして入院してしまって。私はちょうど物件探しをしていて体があいていたので、急遽手伝うことに。その3週間の間にお客さんと接するうちに、ここはいい距離感の街だなと思って、松陰神社前でお店を出そうって決めたんです」
ご近所さんたちが何度も食べに来てくれるから、次第に顔なじみになる。商店街を自転車で走れば、お客さんが声をかけてくれる。そんな近しい距離感が心地よかった。この物件が募集していることを知ったのも、ご近所さんから教えてもらった。すぐに電話して申し込みするも、すでに4番目。その後も続々と申し込みが殺到する人気物件だったという。大家さん、不動産屋さんとの面談を経て、無事契約。事業計画書を作り、アピールしたことが決め手だったそう。
改装したと言っても、床をあげてカウンターを作っただけで、ほとんどいじっていない。壁も、外観も、扉も、トイレの扉も、奥の小さな座敷は昔着付けをするための場所だったらしく、もともとあったものをそのまま使っている。
「小上がりが欲しかったから、奥の座敷を見た時、私のための物件だって思いました(笑)。あとは、『いただきます』とか『あ、これおいしい』とか『これ、なんだろう?』っていう、おうちでごはんを食べている時のような声が聞きたくて。だから、お客さんとの距離が近いカウンターにしようというのは最初から決めていました」
木製のL字カウンターの中で、てきぱきと働く姿を見ていると、とても気持ちがいい。目の前で繰り広げられる料理の数々。宇都宮さんの手さばきに釘付けになり、何ができるんだろうとワクワクしながらカウンターで待つ時間も「食堂めぐる」の楽しみのひとつだ。
食堂のおばちゃんになりたかった
「飲食店でアルバイトをしていた時、人がごはんを食べている顔が好きなんだということに気がついたんです。この仕事を一生していきたいなと思って」
サービス業から調理の世界へ。大阪出身の宇都宮さんは24歳で上京し、カフェ、イタリアン、和食店でも一年ぐらい働いた。料理の経歴としてはイタリアンが一番長い。トラットリアを辞めて、「定食屋」を始めると言うとみんなに驚かれた。昔から、食堂の「おばちゃん」になりたかった。
「私がやりたいのは『家庭料理』なんです。和食っていうほど技術はないけど、家庭料理だったら、今までやってきたイタリアンも、自分の好きなアジアン料理も何でもできる。『家庭料理』って言っちゃえば、何を作ってもいいなって思ったんです。『何が食べたい?』って聞いて、それが出せる環境を作りたかった。おうちでごはんを食べるみたいに」
「食堂めぐる」のメニューは日替わりだが、毎日更新されるインスタグラムにはアップしていない。その理由は、「今日はなんだろう?」とお店に来て知って欲しいから。「遠方の人には申し訳ないとは思うんですけど」。
ランチは、肉とお魚の2種類から選べる定食。ついてくる小鉢は4品もある。皿数が多いとちょっとずつ箸を止めるので、食べるスピードが落ち、ゆっくり食事をしてもらえるのだという。
「夜はお魚中心に。その理由は、ご近所にビストロが多いので、そっちで食べる肉料理のほうがおいしいと思うから。良いお肉を使えばどうしても高くなってしまうし、『定食』っていう定義から外れてしまう気がして。やっぱり1000円代で食べられるようにしたいんです。でも、お肉のメニューも1種類だけあって、いいお肉が安く手に入った時には、焼肉丼を出すこともあるんですよ」
「今日、お肉安かったから焼肉丼よ」なんて、まるでおうちのごはんみたいだ。メニューは何を作ろうと決めて発注していない。お魚は朝電話して、「煮付けだったらこれ、焼きだったらこれ、お刺身なら3種類ぐらいあるよ」とアドバイスをもらって決める。お肉屋さんも同じ。野菜は熊本のマルシェから届いたもので何を作ろうかなと考える。「これとこれがあるから、これにしよう」。そうやって、まさに冷蔵庫を開けてあるもので作る感じが宇都宮さんのやり方だ。
そんな毎日だから、メニューが思いつかない日はない。どういうメニューになるかわからないから、お客さんからすると、あの時食べたあれはいつ食べられるんだろう?と少々やきもきするかもしれない。そんな時は「いつでしょうねぇ」と言って笑ってごまかすのだとか。
めぐりめぐった食材を使うこと
食堂をやろうと思い立って、まず最初に決めたのがお米だった。熊本の「のはら農研塾」の無農薬の有機栽培米を、白米と玄米を混ぜて炊いている。
「母が九州の宮崎出身で、おじいちゃんとおばあちゃんがずっとお米を作っていたから送ってもらっていて、それを食べて私も育ったんですね。そのお米が好きだったけれど、おばあちゃんが亡くなってからは誰も作らなくなってしまって。しかたなくお米を買って食べていたけれど、しっくりこなくて。でも、のはらさんのお米を食べた時に『あ、これだ!』と思って」
絶対にこのお米を自分のお店で使いたいと思った宇都宮さんは、共通の知り合いを通して、直接お願いしに行った。「お店をやろうと思っているので、ぜひお米を使わせてほしい」と話をし、まだお店の場所も何も決まっていない時にお米だけを決めたのだった。
そうして、使いたい食材を探して行くことにした。お米、味噌、塩、醤油……。そうやって一つひとつ探り当てながら決めて行った。店名の『めぐる』の意味は、いろんな人の手を渡って、めぐりめぐって来た食材であってほしいとの思いから。そして最後に、内山太朗さんの器との出会いも運命的なものだった。
「インスタグラムで最初に見た時に、私がやりたい料理をのせるならばこれだ、と。和でも、洋でもなくて、アジアでもあって、レトロなアンティークっぽさもあるけれど、ちゃんと華やかさもあって。言葉として伝えて作ってもらうのはすごく難しいけれど、『ここにあった』という感じでした」
さっそく連絡し、オープン時から飯椀、器、小皿などを使っている。お米といい、器といい、そして何より物件との出会いもそうだが、運命的な出会いに引き寄せられ、いろいろな人たちに支えられてお店を始めることができた。「なんて、ラッキーなんだろう」と宇都宮さんは言うけれど、それはきっと宇都宮さん自らが引き寄せているのに違いない。
「そうなんだとしたら、今、最高に幸せですね」
ごはんの原点は、母と祖母の家庭料理
母と祖母が作る家庭料理が好きだった。宮崎にいた祖母は料理が上手で、雄鶏を一羽つぶして3日かけて煮込んだ料理が今も忘れられない。鶏とごぼうを柔らかくなるまで煮るため良い脂が出て、とてもおいしかった。今ではもう食べられない思い出の味だ。祖母がよく作っていたという「高菜の油炒め」は時々メニューに出る大好きな味。九州物産展などで、九州の高菜を買って作るという。生きている間にもっともっと教えてもらえばよかったと思うこともある。けれど、自分の記憶の中には今も残っている。
「祖母はしっかり手をかける昔ながらの料理を作る人でした。母も子どもの頃から祖母を手伝っていたので、料理の腕は祖母仕込み。毎日、仕事が終わって買い物に行って、家に帰って来て一度も座らずに、そのままごはんを作り始めていました。それが私の中の母の姿。食堂をやろうと思った理由のひとつが、毎日食べたいごはんを作りたいという思いでした。母の料理って何も考えずに出されたものを毎日食べていたでしょう? 『いただきます』と食べて『おいしいね』とか『これ苦手だから減らして』とか時にはわがまま言いながら。それは、外にごはんを食べに行って写真に収めたりする食事ではなかった。そういうふうに普段の当たり前の食事を作りたいなって思ったんです」
「食堂めぐる」のメニューは昔、母や祖母が作ってくれた思い出の家庭料理。イタリアンやフレンチなどいろんな料理の経験を経ながら、宇都宮さんは原点に戻ってきたのかもしれない。
「一周して帰ってきたのかなって思います。めぐりめぐって戻って来たら、大切なものがここにあったんだ、と。料理を始めた頃、『女の人は家庭で料理を作るけれど、シェフには男の人が多いのはなぜだと思う?』と聞かれてわからなくて。女の人はホルモンバランスのせいで、毎日同じ味が作れないのだと聞いた時、すごくショックで。だけど、ある時ふと思ったんです。だから、お母さんの味って飽きないんだって。味に変化があるからこそ、お母さんの味は毎日食べても飽きないし、私はそこを目指せばいんだって」
味が毎日変わってもおいしいと思える料理。疲れていたら自然と塩分を欲したり、酸味を加えたり。そうやって自分の体に正直に、すんなり受け入れられる味つけ。毎日違う味だけど、それでいい。それが家庭料理なんだとわかった。
もう一つ大事にしていること。それはお弁当だ。お弁当をつくるのが好きという宇都宮さん。お店で食べられない人や家でゆっくり食べたい時などはやっぱりお弁当がうれしい。今後は、お弁当箱を持って来たらそこに詰めたり、仕事帰りにお弁当箱を置いて行ってもらって、次の日取りに来たり。そんなふうにしてお弁当を提供していきたいと考えている。今もお味噌汁は、サーモマグなどの保温容器を持って来るとサービスしている。ある近所のお母さんは小鍋を持ってお弁当を買いに訪れ、そこにお味噌汁を入れて持って帰るそう。ご近所ならではの微笑ましいエピソードだ。
「やりたいことはまだ半分くらいしかできていなくて」という宇都宮さんのもうひとつの大きな夢は、パスタを出すこと。キッチンの大きなアルミパンはその瞬間を待っている。トラットリアとはイタリア語で「食堂」のことだし、パスタもイタリアの家庭料理。「食堂めぐる」でパスタが食べられる日もきっと近いだろう。
食堂めぐる
住所:東京都世田谷区若林4-27-15
平日:12:00~14:30(14:00 LO)、18:00~22:00(21:00 LO)
日曜、月曜:12:00~15:30(15:00 LO)
定休日:火曜、水曜
Instagram:@syokudou_meguru/
(2017/06/27)