Bistro endroll
田中誠之さん・紘代さん
小田急線「千歳船橋」駅から歩いて3分ほどの場所に、地元の人たちに愛されるビストロがある。オープンして5年。今では毎日変わる自然派ワインと、季節に合わせたフレンチをベースにしたメニューに、焼きたての自家製パンを提供する。シェフの田中誠之さんと妻の紘代さんの2人でお店を切り盛り。てきぱきと立ち働く2人の姿はなんとも気持ちのいいものだった。
文章・構成:薮下佳代 写真:加瀬健太郎
人が集まる場所を作りたかった
世田谷のミッドタウンエリアには、小さいながらも居心地のいいお店が点在している。カフェや喫茶店はもちろん、カレーに定食、焼き鳥や蕎麦など種類もいろいろ。中でも最近増えつつあるビストロは、気軽に入れて、しかも味は本格派という店が多い。小さい店ながら、いつも常連たちで賑わいをみせている。
そうしたビストロは、どこか共通点があるようだ。ご夫婦でやっていること、小さいながらもメニューが充実していること、個性的でおいしいワインがリーズナブルに楽しめること、カウンターがあって1人や少人数でふらりと行けること……など。ご夫婦2人が並んでキッチンに立つその姿や、季節に合わせて変わっていく手書きのメニューを見ているだけで、いいお店だなとしあわせな気持ちになる。そして、食べるたびにいつも発見があったり、季節の食材に四季を感じたり、店主のセンスが光る空間は居心地抜群で、すぐに打ち解けられる接客に心が和んだり……そうしたお店に出会えたなら、きっと誰もが通ってしまうことだろう。
千歳船橋にある「Bistro endroll」も、そんなすてきなビストロのひとつ。シェフの誠之さんは学生時代、アメリカでフォトジャーナリズムを専攻していたという異色の経歴の持ち主だ。かたや妻の紘代さんは美大を経てデザイナーの道へ。そんな2人が出会ったのは都内のとあるイタリアンレストラン。誠之さんが25歳、紘代さんが19歳の時だった。
「飲食を始めたのは25歳の時。一般的には遅いスタートかもしれませんね。それまではアメリカでフォトジャーナリズムを勉強していました。すごくおもしろかったんですが、ずっとやっていく仕事かと考えたら、自分に合ってないかもなと思って。じゃ、何をやろうかと思った時、漠然とお店をやりたいなと思ったんですよね。その頃、アメリカでカフェブームがあって、いい音楽とおいしいごはんがあって人が集まる空間っていいなって。最初はカフェをやろうかと思っていたんですけど、日本にもちょうどカフェブームが来て飽和状態になってしまった。イタリアンやフレンチの店で料理をやっているうちに、こっちのほうが性に合っているなと思って、お店を出してみようかなって」(誠之さん)
日本に戻って来てシェフとして働いていたイタリアンレストランで、アルバイトスタッフだった美大生の紘代さんに出会った。音楽の趣味が合って意気投合し、付き合うように。その頃から、2人で「いつか一緒にお店をやりたいね」と話をしていたという。
「私が卒業したらデザイン事務所で働いてデザイナー修業するから、お店をやる時はロゴとかメニューとかショップカードを私が作るねと言っていたんです(笑)」(紘代さん)
その頃から、将来を見据えた話をしていた2人。その後、紘代さんはデザイナーとなり、誠之さんはシェフとしていくつかお店で修業した。それから8年が経ち、2人は夢を叶えることになる。
2人の“好き”をかたちにする
「お店をやろうと思ったのは2013年、33歳の時でした。そろそろ独立しようかなというタイミングで、働いていたフレンチのお店を辞めることになって。まだ早いかなと思いつつ、勢いでしたね」(誠之さん)
「私はもっと先の話だと思っていたから、『え、もう?』というのが正直な気持ちでした(笑)。その時、出版社にデザイナーとして就職してまだ2年くらいで、ちょうど楽しくなってきた時だったので。将来いつかやりたいねっていう感じだったんですよ、あくまでも」(紘代さん)
でも、その頃住んでいた千歳船橋で、いまの店となるこの物件を見た時、「やってみようか」と2人の決心は固まった。
「この辺はなかなかいい物件が出なくて。ずっと探していたんですけどピンと来なくて。初めて見たのがここで、一軒目で決めちゃいましたね。千歳船橋は個人店は多いけれど、ビストロはあまりなかったですし、駅からも近くて角地だし、いいんじゃないかと」(誠之さん)
内装は「ハンディ ハウス プロジェクト」が手がけた。メンバーであり建築士の坂田裕貴さんとは、紘代さんがギャラリーで絵の展示をやっていた時に出会ったのがご縁で、お店をやるならお願いしたいとずっと思っていたという。
「ハンディ ハウス プロジェクトは、一緒に作っていく感じなんです。外の壁を一緒に塗ったり。このカウンターとかも、ちゃぶ台や机の天板を組み合わせたり、カトラリーケースもワインボトルを再利用したり、細部にいろいろ工夫があるんですよね」(誠之さん)
「坂田さんはすごくパワーを持っている人で、一緒に話をしているだけで楽しくて。私たちが考えている以上に引き出してくれる人たちなんです。“妄想から打ち上げまで”をコンセプトにしているから、おまかせじゃなくて、一緒に考えてくれる。こちらのイメージを伝えればどんどん広げてくれて、それがかたちになっていくのがとても楽しかった」(紘代さん)
以前は婦人ものブティックだったため、水道もガスも全部新しく引いた。ふらりと来やすいようにカウンターも作った。倉庫として使っていた2階は去年から拡張してテーブル席も増えた。天井には紘代さんが描いた絵が、壁には友人の絵も飾ってある。料理だけでなく、こうした空間すべてが自分たちの“好き”の表現のひとつになり、そこに人が集まってくる。まさに誠之さんがアメリカで見たひとつの理想のかたちが実現した。
おいしい生産者との出会い
名刺やショップカード、手書きのメニューやチラシなど、お店のイメージを作るのは紘代さんだ。メニューに添えられた絵も、ワインの紹介文も書く。まさに2人が思い描いていたお店のあり方だが、オープンした当初からは少しずつ変わって来ているのだという。
「だいぶ変わりましたね。料理のベースがフレンチなのは変わりませんが、当初は、気軽に来てもらえるお店にしたかったから、椅子を置かず立ち飲みみたいな感じだったんです。ワインも500円でカクテルもあって……。でもやっていくうちになんか違うなと。ワインに詳しくなかったこともあってオーソドックスなものしか入れていなかったんですが、ある時、自然派ワインに出会ってあまりのおいしさに2人でハマってしまったんです」(誠之さん)
「それはもうおいしかったんですよ! 衝撃でした。それまでは試飲会に行っても、赤も白も同じような文章で紹介されていて、違いがいまひとつわからなくて。そんな時に『何これ?』と驚く出会いが、フランスの自然派ワインだったんです。味も独特だし個性的だから、ハマらない人はハマらないかもしれないけど、私たちはとてもおいしいと思いました。しかも生産者さんのワイン作りに対する思いがすごく伝わってくるから、おもしろいんですよね。畑にトラクターを入れずにすべて手で雑草を抜いていたり、雑草も共存させてぶどうの木を育てている人もいますし、鴨を飼ったり、ヤギや馬に踏ませたり。普通にぶどうを育てるだけでも大変なのに、農薬も使わず手間ひまをかけて育てている。しかもすごく苦労して作っているはずなのに、すごく楽しそうで。そんな人の作ったワインが飲みたい!って思ったんですよね」(紘代さん)
ほかにも、野菜を仕入れているという山梨県の富岡農園の畑に行った際も、雑草は抜かず、自然に近いかたちで昔ながらの方法で野菜を作っていることを知り、自然派ワインの生産者と通じるものを感じたという。そうした作り手たちと出会ったことで、2人は次第に意識が変わり、提供したいと思うものが変わっていった。
「オープンしてから半年後くらいのことでしたね。オープン当時に来ていただいたお酒好きなお客さんに、料理がおいしから、お酒がちょっともったいないねって言われたこともありました。パンもはじめは買っていたんですけど自分たちでパンを焼くようになりました。最初は固いパンしか作れなくて、『おいしくない』と言われたりもして。発酵時間を変えたり、分量の配合を変えたり、何度もチャレンジしました。いろいろな人との出会いが、変わって行くきっかけになりましたね」(紘代さん)
料理は誠之さん、料理以外のことはワインもパンもデザインも紘代さんが担当している。2人でやっているからこそ、臨機応変に変わることができた。こうしてみよう、ああしてみようとトライ&エラーをくり返しながら。
「2人とも飽き性なので変えたくなるんです。ワインに関してもいろんなものを試したいから、なくなったら新しいものにすぐ変えるので、常連さんが毎日来ても違うワインが飲めるんですよ。彼も行動に移すのが早い人なので、飽きたな、これやろうかなって思ったら、すぐに新しいメニューが実現する。隣で見ていてもすごいなって思います」(紘代さん)
季節に合わせた素材でメニューを考える。夏なら桃の冷製ポタージュと桃の冷製パスタが人気だそうだ。ほかにも、焼きトウモロコシのババロア醤油ジュレなど、見ているだけ夏を感じるメニューも。価格もリーズナブルなのがうれしく、通いたくなるのもうなずける。
映画のような1日の締めくくりに
2013年6月にオープンして、今年で5周年目を迎えた。
「この5年はあっとう間だったねぇ」と2人。「毎日へろへろです」と話しながら笑う2人の様子に、このお店で過ごす充実した日々がうかがえた。
「毎日忙しくて、ダッシュしている感じ。一年があっという間なんです。忙しいですけど、お客さんとの出会いがほんとうに楽しくて。お客さんだけでなく、うちで使ってる器の作家さんだったり、野菜やワインの生産者さんとか、どんどんつながって広がっていくのもお店をやっているからこそですよね」(紘代さん)
お店の名前にある「エンドロール」とは、まさにそうしたたくさんの人たちとの関わりの中から、料理が生まれることへの感謝の気持ちを込めて名付けられた。
「映画ってひとつの作品を作るのに、たくさんの人がたずさわってるじゃないですか。僕の料理をひとつ作るにしても、僕だけの力じゃなくて、食材を作る生産者がいて、器の作家さんがいて、いろんな人の力で一品ができているんですよね」(誠之さん)
「そうした見えている部分だけじゃなくて、お皿の向こう側にある、お店を構成するたくさんの人たちがいる。もちろん来てくれるお客様もその一員なんです。そうした出演者がたくさんいて、私たちはその人たちを大切にしていきたい。そう思って『Bistro endroll』と名づけました」(紘代さん)
そして、もうひとつの意味も教えてくれた。
「1日ってまるで映画みたいじゃないですか。一人ひとりにドラマやストーリーがあって、それってまるで映画の一コマみたいで。いい映画を観た後、『いい映画だったなぁ』と余韻に浸るエンドロールみたいに、料理を食べながらワインを飲みながら、今日という1日を振り返ってもらえたらなって」(紘代さん)
こうした店名に込められた2人の思いを聞いて、ああ、なるほど、愛されるお店とはこういうことなのだと腑に落ちた。「いい1日だったな」と思える、そんな時間をこのお店で過ごせたら、最後はきっとハッピーエンドだろう。