麦 kamiuma ASAHIYA
小林誠一さん
東急世田谷線「松陰神社前」駅から歩いて10分ほど。商店街を抜け、世田谷通りも越えてひたすらまっすぐ向かうと、駒留通りとぶつかる交差点に何やらお店らしきものが見えてくる。週末しか営業していない手打ちうどんの店「麦 kamiuma ASAHIYA」だ。もともとそば屋としてはじめた店をうどん屋にリニューアル。しかも、店主の小林誠一さんはなんと現役の高校教師。平日は教壇に立ち、週末はうどんを打つ。そば屋からうどん屋へ、そして高校教師へ!? そんなユニークなスタイルでお店を営業してもう10年。お店を続けるために変わり続ける小林さんに話を聞いた。
文章・構成:薮下佳代 写真:加瀬健太郎
代々受け継いできた五反田のそば屋を、世田谷の地でオープン
とある日曜日。お店の外に香ばしい天ぷらの匂いと出汁の香りが漂っていた。普段は何も出ていないが、週末だけのれんや看板が出ているとあって、店の前を通る多くの人が中を覗いていく。
週末だけオープンするうどん屋として近所の常連さんたちには知られた存在だ。この日もメニューには “売り切れ”の文字が。うどんが売り切れたら営業は終了だが、この日は取材のために特別にうどんを打っていただいた。店主の小林誠一さんは手際よくうどんを打っては切り、大きな釜で茹で上げる。その間に天ぷらを揚げ、出汁を温める。その一連の動きに無駄はない。
実は、いまから24年前、小林さんが31歳の時、この同じ場所で、前身となるそば屋をはじめた。その頃から変わらぬそばつゆの“かえし”をベースにしたうどん出汁は関東風ながらかつお出汁がよく効いており、ゴクゴク飲んでしまうおいしさ。手打ちのうどんに濃いめの出汁がよくからむ。鴨南ばんや天せいろなど、メニューだけ見ているとそば屋のよう。両方のいいとこ取りの合わせ技で、この店独特のうどんに仕上がっている。
しかし、そんなうどんのおいしさもさることながら、もうひとつ、教師という顔を持つ小林さんのパラレルキャリアや、週末のみ営業というユニークなスタイルなど聞いてみたいことは山ほどある。まずは、このお店の成り立ちから聞いていこう。
「この場所にはもともと家がありまして、私はここで生まれ育ちました。親父は、ひいおばあさんの代からやっていた五反田にあるそば屋『朝日屋』に働きに出ていたんですが、バブルがはじけてうまくいかなくなり、閉めることになったんです。親父は中学を出て上京し、ずっとそば屋で働いていたから、ほかのことは何もわからない。まだ60歳前で、さてこれからどうしようかと。私は当時、横浜で塾の講師をやっていたんですが、ここでそば屋をやるしかない、ということになり、講師を辞めることになったんです」
「第一種住居地域」に定められた住宅地に店を新たに建てるとなると、さまざまな規制がある。それを一つひとつクリアして店と住居に替え、小林さんは「親父のために」そば屋をやることにした。
「実はね、ここに家があった時、うちのじいさんが家の前に看板を立てたんですよ。『朝日屋予定地』って。駒留通りを通るバス停からも見えるように置いて。じいさんも五反田のそば屋で働いていましたから、いずれは世田谷でやりたかったんでしょうね」
いまから40年も前の話だが、「その看板、覚えているお客さんいたよね」と妻の正江さん。ここがアパートに建て替えとなったのは小林さんが大学3年生の時。3階建てだが1階は空けてあった。それは、いつかおじいさんの夢であるそば屋ができるように、との思いがあったからだ。
「でもね、ここでそば屋をやってもダメだって親父に言ったことがあったんです。まわりには昔からやってるそば屋があるし、こんなところでやっていけるわけがないって。そしたら親父が珍しくおふくろにキレたらしくて。田舎の人だからあまり怒ったりしない人だったんですけど、『あいつがやらないなら俺だけでやる』って。でね、考えたんです。親父があと残り20年くらい生きていくなかで、できる仕事ってそば屋しかないんだろうなと。代々、そば屋の直系ではあるけれど、五反田の店では働いたこともなかったし、親父は朝から晩まで出かけたっきり家にいないし、全然身近な存在じゃなかった。でも、学生の頃、朝日屋の系列店でバイトをしたことがあって調理することは問題なかったんで、親父を活かしてやれるのはそば屋しかないと腹をくくりました」
そば屋からうどん屋へ。「違う土俵で挑戦してみたかった」
小林さんが設計をし、お金も借りて店を作り、お父さんを職人として迎えいれることになった。「親父のために」との思いではじめたそば屋は、いつしかおじいさんが予言していた通りになった。ただ、その時すでにおじいさんは亡くなっており、そば屋になった姿を見ていないことが残念でならない。
当時のそば屋といえば、ほとんどが機械打ちだった。自家製ではあるけれど製麺機が当たり前という時代。しかし、だんだんと手打ちのそばなど、付加価値の高いそば屋ができ、「もり一枚1000円」といったそばが台頭してくる。
「当時はもり500円でも高いと思っていましたから、冗談だろ?と。でも食べに行ったら本当だった。手打ちそば屋が増えてメディアでも取り上げられたりしていくなかで、町のそば屋はどうなっていくんだ?と。親父たちの世代は、『あんなのはすぐにつぶれる』って言うんですよ。自分たちは手打ちなんかしたことないから。そんな中で、うちのそばも人気が出ましてね。でもお客さんは手打ちだと思ってたみたいで、はて困ったなと。当時は長野にそば畑を作ったりして、そば粉にも気を使ってたんです。でも結局は機械打ち。何食か限定で手打ちのそばを作って出してみたんですよ。自分で食べておいしくないわけではないけれど、やっぱりほかの店のほうがおいしくて洗練されているように感じる。こんな片手間なことをしても、手打ちでいまと同じ量を出せるわけはないし、結局機械に頼ることになる。そのことに納得いかなくて、そば屋がつまらなくなってしまったんです。悩んだ末、違う土俵で勝負をするしかないと、手打ちでうどん屋をやることにしたんです」
当時、チェーンのうどん店が東京にもできはじめた頃。世田谷界隈にはまだうどん屋はなく、うどんだけでも勝負できると考えた。そば屋をやりながら勉強し、1週間の準備期間を経てうどん屋になった。案の定、お客さんは驚き、「なんでうどん屋なんかに?」と言われることもあった。これが、1度目の大きなリニューアル。いまから10年前のことだった。
うどん屋になった途端、ハプニングの連続
そば屋をやっていた頃は、駒留通り側に入り口があった。その頃の名残の看板がいまもひっそりと掲げられている。なんとそこに、うどん屋になって1カ月後、車が突っ込んでくるという事故が起きた。
「その時、仕込みでうどんを打ってたんですよ。定休日だったから誰も巻き込まれることなく無事でしたが、ただただびっくりしました。植栽があったから少しの被害で済みましたが、半月ほど店を休んで工事して再開しました。それが2度目のリニューアル。さらにその4カ月後には、高校時代のラグビー部のOB会で現役と試合して、思いっきりタックルをくらったら、外傷性くも膜下出血になってしまったんです。自力でなんとか家に帰って来たものの、寝ても治らず翌日病院に行ったら即入院でした」
「吉祥寺で試合があったからと、行列店の『さとう』でメンチカツまで買ってきてくれて(笑)。けれど、熱があっても必ず入るほど風呂好きなこの人が、お風呂に入らずに泥だらけのまま寝ていておかしいなと。それが結果よかったみたいです。お風呂に入っていたら死んでたって」と正江さん。
医師が言うには、これから半年はラグビーはもちろん、運転や力仕事もダメだという。ましてやうどんを打つなんてもってのほか。
「うどん屋をはじめてまだ2年も経ってないのに……と途方に暮れました。手打ちではじめたのに、機械打ちになんてできるわけがない。しゃれた感じの店内にリニューアルした後だったから、喫茶店もいいかなとか、夜だけ飲み屋もありかなとか、いろいろ考えました。でも厨房はそば屋で作ってしまっているから大きな釜があるし、それを使わないのはもったいないなと。そんな時、入院中に見ていた新聞に教員採用の募集記事があって。あぁ、教員という道もあるかと思い出したんです」
そば屋をはじめる前にやっていた塾の講師は、実はそば屋をはじめてからもしばらくの間、ローンを返済するために続けていた。夜はお父さんと正江さんに営業をまかせて塾へ。昼は店、夜は講師。その収入を返済に充てた。
「その頃はまだ30代で体力がありましたからね。3年間やりました。退院してすぐ、教員の派遣会社に登録だけしてみようと行ってみたんです。そしたら、ぜひお願いします、ということになって。うどん屋は続けたいけれど、どこまでやれるか、その頃はまだわからなかったですから。退院したのが夏で、店をだましだましはじめて、9月から週1回、教えに来てくれないかと派遣会社から連絡がありました。それで、まずは定休日を使って、教師をはじめてみることに。そしたら、『来年度は通常勤務して欲しい』と言われて、『考えさせてください』と返事をしました」
小林さんは、うどん屋と教師、両立できる方法はあるだろうかと考えた。その結果、週末だけ店をオープンすることにし、平日は教員をやることに決めた。3度目の大きなリニューアルだった。
「最初の1年間は、平日5日間で週に21コマ教えていました。よくやったなと思いますね。ブランクがありましたから、がむしゃらでしたね。店は土日だけ開けて、その頃は昼も夜もやってましたから休みはなし。その1年の記憶はありません(笑)」
高校教師をしながら、うどんを打つ。
以来、平日は教師、週末はうどん屋の“二足のわらじ”をスタートし、今年で7年が経った。いまも週に5日、藤沢にある高校に2時間かけて通っている。学校がある日は、帰って来てから夜までうどんを打ち、土日の仕込みをするのが日課だ。
2016年、そば屋時代からの名物だった「かき揚げ」を担当していたお父さんが亡くなってからは、小林さん1人で切り盛りできるようお店を縮小し、空いたスペースには縁のある食材などを販売するショップを併設。4度目のリニューアルを果たした。昔からのお客さんには「かき揚げ、もうやらないの?」と言われることもある。けれど、小林さんは「かき揚げは親父のもの」と譲らない。
いまは病気も回復し、特に問題なく過ごせている小林さんだが、休みなく働き続ける、その原動力はどこから湧いてくるのだろう?
「よく聞かれるんですが、回遊魚みたいなもので止まったら死んじゃうんでしょうね。うどん屋のほうが体力仕事ですから、教員をやったほうがラクになるかなと思ってはじめたことだったんですけど(笑)、同じことをやるのが好きではないので、いまもなんとか飽きずに続いています。現代のように、非常に変化の大きい世の中では、できるだけアンテナは広く、いろいろなことができるようになっておいたほうがいいんじゃないかと、授業で生徒たちに話しています。大谷翔平くんだって“二刀流”ですし、昔は『二兎追う者は一兎をも得ず』なんて言われたり、『器用貧乏』なんて言葉もあるけれど、いまは二兎追う者は二兎以上得ていますよね」
昔の言葉でいえば「二足のわらじ」、今風に言えば「パラレルキャリア」を体現している小林さん。その姿は生徒たちにも影響を与えているようだ。
「生徒たちにはお店をやっていることは話しています。教えている教科が政治経済ですから、いろんな人に会って、いろんな働き方を見ることは彼らにとってもいいことだろうと。将来、自営をやりたいという子も出てきたんですよ。我々の時代と違って、彼らのまわりに自営をやっている人がいないんです。私が子どもの頃は八百屋や魚屋の息子がいたり、自営業って当たり前の存在でしたけど、いまは会社員がほとんど。身近に飲食店をやっている人もいないし、彼らにとって飲食店はコンビニやファストフードなどのチェーン店。店主と仲良くなったり、話すこともない。だからうちの店にくると、店の主人と知り合いだということをうれしく思ってくれてるみたいなんです。卒業してからも食べに来てくれたりね」
お店をやっている人も場所も変わらず同じなのに、出しているメニューだけが変わってきた。うどん屋にしてからは小さなお子さん連れのお客さんや若い人も来てくれるようになった。もちろん、そば屋の頃から来てくれる常連さんもいる。厨房が見える窓の上には、そば屋時代のメニューがいまも飾られており、これからの季節は、アツアツのなべやきうどん、釜あげうどんやけんちんうどんがはじまる。
小林さんの「やりたいことをやりたい」というシンプルな気持ちから、うどん屋となり、教師となり、その時々に起こる変化を受け入れ、店をリニューアルし、自身を更新してきた。けれど、おいしいものを提供することだけは、これからも変わることはない。頑固一徹のように見えて実はとても柔軟。そんな小林さんの働き方はきっとこれからの時代のヒントになるだろう。これからもうどんのように太く、長く、しなやかに、どうか続いていってほしい。
麦 kamiuma ASAHIYA
住所:東京都世田谷区上馬5-16-16
営業時間:11:30〜14:30(土曜、日曜のみ開店)
定休日:月曜〜金曜
Facebook:mugi kamiuma ASAHIYA
Instagram:@udon_asahiya
(2018/11/27)