PICON
宮武一昌さん
東急世田谷線「山下」駅からすぐ。にもかかわらず、小田急線「豪徳寺」駅の商店街からは一本奥まった通りにあるため、お店の前を歩く人はまばら。ひっそりとした路地に佇む、その店構えはまるでフランスのカフェのよう。取材に伺った平日の昼間には、常連さんが次々と訪れては、コーヒーを一杯飲んで帰って行く。お店をオープンしてもう24年。静かに変わりゆく街に、いつまでも変わらないカフェがあった。
文章・構成:薮下佳代 写真:加瀬健太郎
街中から外れ、大人の街へ
車も通れない細い路地には、小さな個人店が立ち並んでいた。隣には遊歩道があり、歩いている人しかいない静かな場所。そんな路地裏にある「PICON(ピコン)」の店内は薄暗く、一歩中に入れば、時を重ねて味わいを増した家具やポスター、酒瓶が並び、落ち着いた空間が広がっていた。
カウンターに座り、マスターである宮武一昌さんに話を聞いていると、一人、また一人と常連客が訪れる。1995年4月にオープンしてから、この地でもう24年もの間、営業を続けている。24年前には新築だったこの場所も、いまではすっかり時が経ち、ゆったりとした良い時間が流れている。スツールやドア枠など、さりげなく所々にテーマカラーとなる赤が入っている。
宮武さんは、この地で「ピコン」を始める前、表参道の「スタジオVカフェ」で20歳の時からずっと働いていた。その後、ケーキづくりをやってみたくなりウィーン菓子のお店へ。次は個人営業の店を見てみたくて、その当時一番好きだった下北沢のカフェバー「ル・パラディ」で働いた。店長まで勤め上げ、32歳の時に独立。「ピコン」をオープンした。
「下北沢のお店は今はもうないんです。なくなってもうしばらく経つけれど、今でも『同じ紅茶を飲んだことがあるのよ』とお客様から言われるほど。すごい店だったんですよ。フランスのカフェをそのまま持ってきた、みたいな場所でしたね。その当時、そんなお店はなかったですから、衝撃的でした」
表参道、赤坂、下北沢と渡り歩き、たどり着いた最後の場所が山下だったのはなぜなのだろう。その理由を聞くと、「なぜなんでしょうね」と宮武さんは笑う。
「街中でずっとやってきたので、人が多い場所は嫌だったのと、大人を相手にしたかった。ここはその条件にぴったりだったんです。当時の山下はまだ何もなくて。この店の前の歩道はまだ土でしたし、夜はスナック街。ここで本当に店をやるのか?と考えたこともありました。けれど、長い付き合いの不動産屋さんに薦められて。その頃、下北沢に住んでいたんだけど、豪徳寺・山下エリアはよく知らなかった。それで豪徳寺駅の前で一日座って人の流れを見てみることにしたんです。下北沢よりも落ち着いた雰囲気だったし、おしゃれな人やきちんとした身なりの人が多くて、地に足がついてる気がしてね。もしかしたらこの土地でもやっていけるかもしれない。そう思ったんです」
ここは豪徳寺へ行く参道だったため、昔から栄えていたという。そのため、和菓子屋があったりと昔ながらの店が多い。
「だから、のんびりした空気感があるのかな。とても暮らしやすいですよ。東京では10カ所くらい住んだけど、ここはすごく暮らしやすい街。世田谷線もあるし、小田急線も京王線も使えて、バスも渋谷から出てるし、環七、環八も近くてとても便利。だから長く住んでいる人も多いし、よっぽど住みやすいんでしょうね」
フランスで食べた思い出の味を提供する
日中はほぼ毎日訪れる常連さんばかり。作家の方も訪れると聞いて、なるほど、この落ち着いた空間がきっと心地いいのだろうと想像する。常連さんは、コーヒーを頼んで一服したり、宮武さんと話をしたり、ゆっくり本を読んだり、ケーキをテイクアウトしていく人も。
あるお客さんは「ヒマだから毎日来るんだよ」と話してくれたけれど、そうやって、個人個人が好きなように過ごせる場所があるなんてうらやましい。約束するわけでもなく、行けばそこで誰かに会い、言葉を交わす。一杯のコーヒーを飲む時間だけを共有する。まさに大人の溜まり場だ。
そんな時、ゴールデンレトリバーが散歩途中に訪れた。宮武さんは飼い主であるお客さんと、犬にも水を出した。家を出るとまっすぐここに来る常連さんなのだという。ほぼ毎日、雨の日も晴れの日もこの店を訪れ、コーヒーと塩クリームのシュークリームをオーダーする。塩クリームの中身は飼い主が食べ、外側のシュー生地だけ犬がぺろりとたいらげた。
人気商品は、この塩クリームとブルーチーズケーキ。ブルーチーズのケーキは、おしげもなくたっぷりとブルーチーズを使い、濃厚でいてしょっぱさと甘さがくせになる、赤ワインにぴったりな大人のケーキだ。このチーズケーキ一品で前菜にもなり、食後のデザートとチーズが一気に味わえる。しかもたったの380円という安さで。
「ここ4〜5年は一番人気ですね。10年前はね、子どもが食べられないと苦情がきたぐらいだったんですよ(笑)。今では12月のパーティシーズンには予約でいっぱい。チーズを買うより安いとよく言われます。ブルーチーズを初めて食べたのはフランスでね、量り売りで売っていて、そのおいしさは衝撃的だった。日本のチーズとは全然違いましたね」
ほかにもノルマンディーで食べたムール貝とシードルのおいしさや、とある港町で食べた内臓の煮込みのまずさなど、フランスでの忘れられない食の思い出がたくさんあるという。そんな思い出の一つひとつが宮武さんの味を作る、大事な要素になっているのだろう。
昼は田舎風パテやキッシュロレーヌ、バゲットを使ったサンドイッチやケーキが、夜は山盛りのムール貝や、フランス風のベイクドポテトとグラタンのようなドフィノア、鴨足のコンフィ、フランス産エスカルゴと言ったフランス料理が気軽にいただけるとあって、外国人の方の予約も多いという。
カフェでもなく、バーでもなく
店名の「ピコン」とは、フランスのリキュールの名前だ。オレンジの果皮やハーブを使った甘くてほろ苦いこのリキュールは、フランスに行けばどこでも飲めるポピュラーなもので、昔の白黒のフランス映画にも出てくるシーンがあるほど。通常は、生ビールにピコンを入れ、甘いビールとして飲むのがフランス流だそうだ。
「いまから24年前は、店名に商品名を使うことができなくて。だから、ピコンバーやピコンカフェなんて言っていたんですが、今は登録されて、日本で唯一『ピコン』と名乗ることができるようになりました。けれど、フランスの会社がなくなってしまって、イタリアの会社が買収したので原産国がイタリアになってしまったのが残念なんですけどね」
店には、ピコンの今のボトルだけでなく、昔のラベルのものも飾られ、トイレには昔のポスターが貼られている。宮武さんは、若かりし頃に訪れたフランスのとあるカフェにピコンが並んでいた風景を今も覚えている。
「パリのデファンスという下町に住んでいたことがあったんです。5カ月間ほど何をするでもなく、毎日ぶらぶらしていて。知らない街で一人暮らし、フランス語も話せなかったんですけどね。そんな時、アパートの近くに、老夫婦が営業してる小さいカフェがあったんです。そこにいつも赤いラベルの昔のピコンがあった。あのお酒は何だろうなと思いつつ、飲んだことはなかったんです。暗い店で、いつも同じ人が座っていて。“本日のケーキ”って書いてあるんだけど、毎日りんごのタルト以外出てきたのを見たことがなくて(笑)。でもそこは、僕にとって救われる場所だった。ほっといてくれるんだけど、かといって一人じゃない感じで」
その時から数年が経ち、ある時、『世界の名酒事典』を見ていたら、ピコンが載っていた。しかも、ラベルが昔の赤のものだった。あの小さなカフェにあったピコンを思い出して、店名につけることにした。
バーを作る気もなかったし、カフェを作る気もなかった。ドアには「café PICON BER」と書いてある。「BAR」ではなく「BER」。何と読むのかと聞くと「読めないんですよ」と宮武さんははぐらかす。
「AUX BACCHANALES(オーバカナル)ってお店があるけれど、あそこはカフェでもないし、バーでもないし、ビストロでもない。バカナルはバカナルなんです。Café La Boheme(ラ・ボエム)もそう。店を作る立場としてはそれが一番だなって思うんです。俺自身、中途半端なことしかやってこなかったから何にもないんですよね。だったら何でも屋をやればいいんだ、と。中途半端かもしれないけど、自由にやれるという強みがあるなって」。
だから、カフェでもなく、バーでもなく、ビストロでもなく、「ピコン」は「ピコン」。そう胸を張る。
1年に一度結婚記念日に必ず来てくれるという人や、辞めたアルバイトの人は今も食べに来てくれる。在住の外国人が来てくれたり、海外へ戻ってもクリスマスカードを送ってきてくれたり。昔から通っている常連さんはもちろん、そうやってみながこの場所を訪れては、かけがえのない時間を過ごしていく。それはまさに、宮武さんが初めてのパリで経験した、あの小さなカフェで過ごした時間のよう。日常に寄り添う、大人のための居場所。それが、世田谷の路地裏にもあったのだ。
PICON
住所:東京都世田谷区豪徳寺1-45-2
営業時間:13:00~23:00、日祝12:00~21:00
定休日:火曜
(2019/03/26)