ごはん屋 ヒバリ

田中聖子さん

最寄り駅
祖師ヶ谷大蔵

店の扉は、建物いっぱいに伸びる植物に隠れるようにしてあった。扉を開けて階段をのぼっていくと、なんだか親しい人の家にひさしぶりに上がりこんだような安心感のある空間が広がっている。カウンターキッチンの中には使い込まれた鍋やフライパン、かたちのよい器やグラス、その合間で彼女・田中聖子さんが手際よく惣菜を盛りつけ、大きな塊肉を丁寧に切ってくれる。ひらりと皿に乗せられたハムに窓からの光が射し、薄く透き通るさまを見ていたら、じんわり「おなかすいた」と興奮した。

文章:吉川愛歩 写真:チェルシー舞花 構成:鈴石真紀子

育つものから考える料理は、変化に富んでいた

「固定種」という言葉を聞いたことがあるだろうか。ごく簡単に説明すると、野菜から採った種を蒔いて作物を育て、またその種を採って蒔き、ということを繰り返して栽培したものを指す。市場に多く出回るよう、ある程度安定した収量が得られる種類と違って、固定種は個体によって収穫時期に差が出、かたちや大きさも不揃いになることが多いらしい。そのため扱いが難しいと思われがちだが、種そのものを守り続けたいという思いを持った農家も多い。「ごはん屋 ヒバリ」は無農薬の固定種、広島のとある一軒の「農家さん」が育てたものを軸に営んでいる。

「ふつうお店にはメニューがあり、それに合わせて材料の仕入れをして提供すると思うのですが、固定種の野菜をいちばんに楽しんでいただきたいので、つくりたいものからではなく、今採れるものからメニューを考えるんです。農家さんと長電話をしては畑のようすを聞き、『今日はこれが採れそうだよ』と言われてから、『じゃあどんな料理にしようかな』って。今の季節(注:4月下旬取材)は春野菜が終わり、夏野菜はまだ間引きする芽も出ず、畑が閑散とする端境期で野菜が何もない。そんなときもあるんです。だからこのごろは野山のもの、タンポポの葉や山菜、木の芽などを農家さんが送ってくれる」

この日のメインは「野草のスープ 豚肩ロース」。広島の野山で採れた野セリ、うるい、木の芽、春菊を刻んで出汁と合わせ、柔らかく煮た豚肩ロースとスープ仕立てにした一品。うるいは光を遮って白く柔らかな葉になるよう育てたものが一般的だが、田中さんが抱えて見せてくれたのは、青々と勢いよく伸びた立派なうるい。自由に生えた力強い葉は豪快だ。香りのある野草同士の組み合わせは斬新で、シャキシャキとした歯触りに野菜の育ちのよさを感じる。

「多品種を少量つくっている農家さんとは言え、採れるときは一気にたくさん採れてしまうので、とにかく無駄にしないよう保存食にしたり、食べ方を工夫したりしながら、いろいろな楽しみ方で素材を味わえるようにしています。スーパーや商店ではどの野菜も旬より早く出回りますけど、うちでは本当に時季が来ないと野菜が採れない。みんなが筍はもう飽きた! って思うころに筍が収穫できる感じで、ちょっと焦っちゃうときもあるくらい(笑)。でも、人の都合じゃなく自然に合わせて、はじめは間引き菜を食べ、旬の時季を迎えた瑞々しい野菜が採れ、水分量が少し減った終盤を迎えて、ひとつの野菜との季節が終わる。そうして月日の移り変わりを感じながら、それぞれに調理法を変えて長く楽しめるのがいいなって」

新しいものを手にするために、手放す

もとは化学の研究員だったという異色の経歴を持つ田中さんが、この祖師ヶ谷大蔵に店を出したのは6年前のこと。
「子どものころは共働きの家庭だったので、母が帰るまでに一品つくったりごはんを炊いたりするのは子どもたちのすべきことでした。とはいえ、火を使ったり包丁を握ったりするのは二人の姉で、わたしは最後の味つけなど、危なくなくかつおいしいところだけを任せてもらえて。料理っておもしろいなあと思っていました」

大学院で化学の研究をしていた田中さんは、公務員に。そこで田中さんは食品メーカーに関わる研究や相談窓口の仕事を担うことになる。

「賞味期限の設定やカロリーの計算、発酵の進み方、食べ物や調味料がどのようにできているかなど、メーカーからの相談に答える業務をとおして、食品や、それにまつわる生物的、科学的なことについてたくさん学びました。このときの経験で得たものはとても大きくて役立っています。たとえば料理教室をはじめたころは、調味料の量や加熱時間などを感覚的な言葉でお伝えしていたんです。でもあるとき、家でうまく再現できないってお客さまにご指摘いただいて……。料理も化学と同じで再現性が命なんだなと知ったんです。化学では再現がとても重要ですから。きちんと計量してだれもが同じものがつくれるようにと思いはじめたのはこのころ」

公務員として日々働くさなか、不意に転機が訪れた。知り合いになったカレー専門店の手伝いを頼まれたのだ。公務員なので副業はできなかったが、店でのライブイベントを企画したり、忙しいときに手を貸したり、音楽や料理と触れ合う時間が増えていった。

「当時の生活は本当に楽しいことばかりで無我夢中でした。ただ、やりたいこととやるべきことを全部していたら、眠る時間がうまくとれなくなってしまったんですね。朝から仕事して定時であがってカレー屋さんに行って、営業後は賄いを食べながらライブの企画して、翌朝はまた6時起き……。とにかく眠くて眠くて、ある日わたし歩きながら寝ちゃったんですね。それで、このままじゃあ危ない、って(笑)。楽しすぎて、そうなるまで気がつけなかった」

何かを手放さなければ。そう考えたとき、仕事を辞めようと思った。

一冊のメモ帳だけですべてがはじまった

もうひとつ、田中さんがお店をひらく決心を固めるのに欠かせないきっかけがある。現在まで「ごはん屋 ヒバリ」を支えている広島の「農家さん」との出会いだ。旅行したとき、道の駅で買った野菜の味に衝撃を受けて以来、毎週野菜を送ってもらう関係になっていた。
「そのころは固定種って何? 無農薬だとおいしいの? って、何も知らなかったのですが、それでも農家さんの野菜は理屈抜きにおいしかった。野菜の個性がはっきりしていて力強いので、調味料はそれを支えるだけ、最低限の量でいいんです。どんなお店をひらきたいか考えたとき、音楽も食も大好きだけど、やりたいのはライブハウスじゃなかった。会社帰りに夕ごはんを食べられて、旬を感じられるような食べ物が出てくる場所、というのは自然に決まっていました。そこに農家さんの野菜は必須で。今もそこは変わりません」

調理師でもない、シェフとして働いた経験もない。そんな田中さんを支えたのは一冊のメモ帳だった。
「本当に何もわからないままだったので、とにかく一年の季節の流れを知ろうと思って、毎日食べたものを日記にしてつけることにしたんです。ただ単に自分がその日思いつきでつくったものをメモしただけなんですけど、お店がはじまってしまったら、きっともう止まれない。スランプに陥って何も思い浮かばなくなってしまったら、このメモをひらこう、って。そのお守りだけを頼りにお店をはじめました」

はじめは間借りで、そのあとは東京で雑貨屋を営む友人から誘いがあって上京、少しずつ自分の思いをかたちにしていき、祖師ヶ谷大蔵に「ごはん屋 ヒバリ」をオープンさせた。一年以上探して見つけたこの物件は、偶然にも田中さんがまだ広島にいるころに訪れたことのある店舗だったそうだ。

特別じゃない、毎日のごはん

月日が経っても、「ごはん屋 ヒバリ」が大切にしていることは変わらない。農家さんの野菜を無駄なく調理し、その食材にまつわる“研究成果”を伝えるために料理教室をひらく。レシピを伝えるというより、野菜の切り方や無駄なく使える方法、どの野菜もが主役になれる味つけの仕方など、野菜との向き合い方を教わる教室は毎月あっという間に埋まってしまう。「ごはん屋 ヒバリ」は野菜のイメージが強いが、キッチンで燻した自家製のソーセージやハムなどのメニューもあり、燻製の仕方も教室で教わることができる。

「夕ごはんをここで食べてもらうのももちろん嬉しいのですが、やっぱりごはんって家のものだと思うんです。外で食べるのは特別なとき、日々のごはんはリラックスして、家でもおいしく食べられるように伝えていきたいんですよね」

「ごはん屋 ヒバリ」を訪れたらぜひ食べてほしいのが、夜のおまかせコース。その日いちばんの野菜を中心にしたコース料理は、旬をふんだんに楽しめる。この日の前菜は、右の器の中に分葱のぬた和え、そこから野菜だけ時計回りに、紅くるり大根のレモンマリネ、こごみ、大根のクミンマリネ、わらび、人参のマスタードシード炒め、筍の煮物、ほうれん草の胡麻和え、そして自家製のハム。一口ずつの小さな惣菜の調理法はどれも単純で大胆だが、口に入れると繊細で儚く、言われたとおりそれぞれの野菜の風味がしっかりと記憶に残る。なくなるのが惜しくなり、大切な気持ちで食べたくなる味だ。

そんな田中さんがこれからしていきたいことは、農家さんへの恩返しだと言う。
「恩返しと言うと大仰なのですが、自然災害やイノシシによる食害などで、農家さんのお仕事がとても大変なときがあるんです。それを東京から支えられないかというのは常に考えているところ。まだ試験的にではありますが、料理教室に来てくださった方に野菜を販売しはじめたんです。野菜と食べ方がセットで渡せるのはいいなって」

田中さん、お守りにって一年間つけていた食べ物日記は、結局ひらくことがありましたか。
そう聞くと、田中さんは「実は一度もなかったんです」と笑った。

「届く野菜を見たら、いつもどんなふうに料理したいかイメージできて、その連続で今がある。たぶん今ひらいても全然参考にならないと思うんですよ(笑)。でも、ずっと心の支えにはなっていました。だから今もまだちゃんと持っています」

田中さんの話を聞いていると、広島の広大な畑が見えるよう。誰の手も借りず太陽だけを見てまっすぐに伸びていく野菜の素直さと、それを見守るように育てている農家さん。たった今畑で採れたばかりの野菜は、田中さんの手にかかると皿の上でもいきいきと輝く。東京の雑踏の中でも、はっとするほど美しい自然を見たような気がした。

ごはん屋 ヒバリ
 
住所:東京都世田谷区砧8-7-1 2F
電話:03-3415-4122
営業時間:水~金 18:00〜23:00(22:30 LO)、土日 12:00〜16:00
定休日:月曜、火曜
ウェブサイト http://hibarigohan.com/
Instagram https://www.instagram.com/gohan_hibari/

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