特集
あの人のせたがやンソン 土岐麻子さん
世田谷ミッドタウンエリアに縁のある人物と、その街を歩く『あの人のせたがやンソン』。第1回目に登場した作家・しまおまほさんに続くのは、シンガー・土岐麻子さんです。土岐さんと巡るエリアは中学時代から大学時代まで過ごした千歳船橋~経堂エリア。懐かしのアルバイト先と母校を訪れて、自身の原点にふれました。
文章・構成:加藤 将太 写真:永峰 拓也 ヘア&メイク:井手 真紗子
ここが原点。懐かしの母校へ
土岐さんと歩く世田谷ミッドタウンも終盤へ。最後の目的地は母校・鴎友学園女子中学高等学校(以下、鴎友学園)だ。
鴎友学園は1935年に創設された中高一貫教育の女子校。都内の学校では珍しい広々とした敷地面積を誇り、打ちっ放しコンクリートが特徴的な校内には、ステンドグラスや川が流れる遊歩道(流れの小径)など、知性と心豊かな生徒に育成するための充実した設備が整えられている。通常科目のカリキュラムはもちろん、花や野菜を育てる園芸の授業が組み込まれているのも鴎友学園の特徴のひとつだろう。
「中1と高1のときに園芸の授業があって、温室でお花を育てたり、クリスマスリースをつくったり、校内のいろいろなところに咲いているお花を押し花にしてクリスマスカードをつくったり、大根やラディッシュを育てて家に持って帰ったりもしましたね。お花の原産地や名前を覚える「花名テスト」が苦手で、まったくできなかった。今もそうだけど、私は植物をうまく育てられないんですよね。当時から枯らしちゃうタイプで劣等感がありました(笑)」
大切なことを教えてくれた、恩師との再会
土岐さんは鴎友学園時代、部活動に熱心な生徒だった。所属していたのは運動部のダンス班。私学大会、中体連、全国大会、学園祭などの舞台に向けて大所帯で活動しているクラブで、選曲から振付、衣装、照明に至るまで、学生たちで考えてひとつの作品を創っていく。土岐さんによると、在学当時は陸上班が一番ハードだったが、ダンス班はそれに次ぐ厳しさだったとか。厳しい故に大会などでの優勝経験も豊富だ。
そんな名門ダンス班が活動していた体育室を訪れると、ジャージ姿の小柄な女性が迎え入れてくれた。ダンス班の顧問であり、土岐さんの恩師にあたる木村珠子先生である。土岐さんは一昨年に同級生たちと思い立って学校を訪問し、木村先生と久々の再会を果たした。昨年は会えなかったが、実は土岐さん、JFN系のラジオ番組『ゆうちょ Letter for LINKS』に出演した際に、木村先生への感謝の気持ちを手紙にして読み上げたのだった。土岐さんが綴った内容はウェブ上で公開されているので多くは語らないが、木村先生は「調和の大切さ」を教えてくれた人なのだ。
「他校の先生が『ラジオで木村珠子の名前が出ているよ!』と教えてくれて。後日、学校でも校長先生が麻子さんの手紙を紙に起こしたものを教員会議で配ってくれたんです。『そんなふうに思っていてくれたんだな』と本当に嬉しかったですね」(木村先生)
「私は小さい頃からクラシックバレエを習っていたので、踊ることに慣れていたし大好きだったから、部活はダンス班に決めたんです。クラシックバレエの世界ではダメな人はすぐに落とされるけど、創作ダンスの世界は違って。もしも技術が達していない子がいたとしても、その子を置いていかない。このメンバーと何を目指すのか団結して、誰もが映える振り付けを考えて、ひとつの目標を目指していたんですね。だから、ひとつの作品を全員で踊りきる喜びがありました。木村先生が教えてくれた調和は、今の仕事にも直結していますね。スタッフやバンドを変えようとする人がいるけど、私はこの人たちとやる意味を考えようとするんです。それは間違いなくダンスの影響ですね。当時の珠子先生はめっちゃ怖かったですよ、私たちはよくしごかれていましたから。日光の合宿は本当につらかった(笑)」(土岐さん)
思い出話は止まらず、場所を教室に移して、ゆっくり話し込んだ。木村先生は土岐さんの担任ではなかったから、ダンス班以外でそこまでの接点はなかったそうだが、土岐さんには洗練されている印象を持っていたという。
「彼女は背が高くてスラッとしていて、舞台映えする生徒でした。個性を出しながらも、しっかりと周りを見ながら行動をしていたと思います。私の前で自己主張した記憶はなく、問題児ではなかったですね(笑)」(木村先生)
「先生に叱られた後、『私たちに厳しくするのはどういう意味なんだろう?』とみんなで話し合ったりしたんですよね。単純に怒られたら『先生、怖いな…』って思うんだけど、私たちは『みんなで踊ることがどういうことなのか。それを見据えた言葉なんじゃないの?』と話していましたね。『先生は感情で怒っているわけではないから、私たちも考えよう』って。高校の先輩たちが先生と渡り合って話しているのを見て、いつか私たちもそうなりたいと思ってました」(土岐さん)
「そんなことをしてくれていたんだ。踊りは本番だけじゃなくて、そこに行き着くまでの気持ちも大切だから。ダンス班での6年間を楽しんでもらえたのは教師として本当に嬉しいです。厳しかったかもしれないけど、真剣にお互いの青春時代を毎日向き合って過ごしていたと思う。ランニングの距離を途中で伸ばすことはなくなったけれどもね(笑)。価値観の異なる人たちとひとつのものを作り上げる喜びが、今の麻子さんに繋がっているのは教師冥利に尽きますね」(木村先生)
かつては厳しかった木村先生も数年後には定年を控える年齢に。教師として脂が乗った時代を青春という言葉に込めて、当時を感慨深く振り返ってくれた。
初心にかえるということ
恩師との再会も終わりの時間に。母校を後にして、土岐さんに10代の自分にふれた時間を振り返ってもらった。
「珠子先生が持ってきてくれた昔の写真を見て、『若かったから、すごく可愛く写っているんだろうな』と思ったら、全然可愛くなくてびっくりしました(笑)。わざと変な仏頂面をしていて、当時は何か思うことがあったのかもしれないけど、なんであたし、こんな顔していたんだろう…。今はそんな表情をしないから別人のような感じがして。親とか先生に『もっと女の子らしくしなさい』と言われても、当時はその意味がまったくわからなかったけど、教室の雑然とした感じを見て、『私もこんな感じだったな』って、当時の人目を意識しないで振る舞っていた時間を思い出して、初心にかえった気持ちがあります」
学生時代は響かなかったけれども、卒業して、大人になってはじめて伝わることがある。年月が経ったことで、恩師と沢山の言葉を交わすことができた。木村先生の教えは土岐さんの中に、たしかに伝わっていた。
土岐 麻子(とき あさこ)
Cymbals のリードシンガーとしてデビュー。2004年の解散後、父・土岐英史氏を共同プロデューサーに迎えたジャズ・カヴァー・アルバム『STANDARDS ~土岐麻子ジャズを歌う~』をリリースし、ソロ活動をスタート。ユニクロのCMソング『How Beautiful』、資生堂「エリクシール シュペリエル」CMソング『Gift ~あなたはマドンナ~』がスマッシュヒット。最新作は2015年9月にリリースされたオリジナルアルバム『Bittersweet』。数多くのアーティストの作品へのゲスト参加や、 CM音楽の歌唱やナレーション、テレビ・ラジオ番組のナビゲーターも務めるなど、“声のスペシャリスト”として知られる。2015年12月には初となるエッセイ集『愛のでたらめ』(二見書房)を発表し、声だけでなく言葉の活動も広げている。
土岐麻子さん オフィシャルウェブサイト
http://www.tokiasako.com/