タビラコ

高橋佳奈さん

最寄り駅
松陰神社前

ここ10年ほどのあいだに大きな変貌を遂げ、注目を集めるようになった松陰神社前。2016年には「good sleep baker」や「duft」といった人気店や作家のアトリエなどが入居する「松陰PLAT(以下、PLAT)」が誕生し、今や街内外の人々にとって欠かせないスポットとなっている。PLATができる前からこの場所に店を構え、現在はPLATの2Fで営業しているのがカフェ「タビラコ」だ。現在は薬膳をベースにした軽食やドリンクの提供のほか、展示などのイベントも不定期で開催している。2010年3月のオープンからもうすぐ11年。松陰神社前を選び、変わりゆく街の中で自身も移転という大きな転機を乗り越えてお店を続けてきたこれまでの歩みについて、店主の高橋佳奈さんにじっくりと聞いた。


構成・文章:山田友佳里 写真:チェルシー舞花

さまざまな仕事を経験して

PLATの外階段を上がって、2Fのつきあたり。入ってすぐ、店内中に描かれた鳥の絵に目を奪われる。その鳥たちに囲まれた奥のキッチンから、高橋さんが話を聞かせてくれた。

「前の物件を取り壊すとき、最後だからと友人で画家の山口一郎くんに頼んで店内じゅうに描いてもらったものを引き継ぎました。石膏ボードを残すのは難しいそうですが、せっかくだからと内装デザインをしてくれた坂田裕貴さんが頑張ってくれました。いつの間にかお店のロゴマークにもなりましたね」

タビラコでは山口さんをはじめとするアーティストの展示や映画鑑賞会、ワインとチーズを味わうイベント、さらには画家や音楽家を招いた「タビラコ文化祭」も開催している。多彩な顔を持つ場となった経緯は、高橋さんの経歴を聞いて納得した。

「もともと絵の勉強をしていて、いろいろな仕事をしながら作家活動も続けていました。最初は絵本の出版社に勤めたんですが、年女にあたる24歳の年に新しいことを始めようと思い立って、調理師の免許を取ったんです。それで飲食店のキッチンで働いたんだけど、どうも性に合わず約2年で離脱してしまって。ワインショップで販売スタッフをしていたとき、縁あって『DEE'S HALL(ディーズホール)』も手伝うことになりました」

DEE’S HALLは、アンティークのキッチン雑貨の店「DEE’S ANTIQUE」で日本の雑貨ブームの火付け役となった土器典美(どき・よしみ)さんが、青山に開いたギャラリーだ。ジャンルを限定することなく土器さん自身が選び抜いた質の高い作品が展示され、アーティストや芸術に関心の高い人々の交わる場となっている。

「オープニングパーティに遊びに行って、典美さんに誘ってもらってから5年ほどディーズで働いていました。山口くんと出会ったのも彼がディーズで展示をしていたときです。私はすでにタビラコを始めていて、1日だけ手伝いに行って知り合ったのですが、東京では友達が少なかったからかお店に来てくれるようになって、仲良くなっていきました。ディーズにいたときは大変でしたが、刺激的で楽しい時間でしたね。そこで働いてたからこそ『ディーズの高橋佳奈』ではなく、自分で何かをしたいと思ったんです」

松陰PLATと共に訪れた転機

調理師時代から、いつかは店を持ちたいと考えていた。実現に向けて動き出したものの、仕事の掛け持ちで月に3日間しかとれない休みでは思うように物件探しが進まず、3年かけてようやく以前の物件にたどり着いた。松陰神社前に決めたのは、当時駅前に喫茶店があり(現在は東秀)、喫茶文化のある街だと思ったからだったという。

「世田谷区役所に用事のある人たちが、お茶をしに来てくれると思ったんです。でも、いざお店を開けてみたら、区役所に勤める人たちのランチ需要のほうが遥かに高くて。それでも生活が懸かっているから、私も簡単には辞められない。朝の9時から仕込み始めて、慌ただしいランチタイムが過ぎたらお茶の需要はそれほどなく、次の日の仕込みをしているうちに店じまい。思っていたようにはならなくて、ずっと悶々としていました」

転機が訪れたのはそれから5年半が経った頃。PLATができることになったのだ。タビラコはそのままPLAT内に移転することになり、立ち退き料が入ったことで余裕ができた。そこで高橋さんは、かねてより興味のあった中医学を学ぶことにする。

中医学はもともと数千年前の中国の皇帝を生き永らえさせるため、長年の研究と臨床実験を経て確立された伝統医学だ。中医学をはじめとする東洋医学では、発病する前の「未病」の状態から不調を見つけ、基本的には日々の食養生によって身体や精神の状態を穏やかに整える。そのために考えられた食事が「薬膳」であり、天然の薬効から有効成分を精製しない生薬や滋養に良い食材を使って作られる。

「西洋医学では劇的に症状を改善する先生や薬が高く評価されますが、中医学はまったくの逆。毎日何事もないのが一番で、そうできる先生や食べ物が良いと言われているんです。平熱が低くても、太っていても、何ともなければそれで良い。その人の体質のなかで状態を見るから、標準値が設けられていないんですよ」

自分の「質」と向き合い、自然な薬効で時間をかけ整えていく中医学。しかし、人の体質も暮らす環境も千差万別かつ変化するため、処方はオーダーメイドに近い。高橋さんが勉強をし始めた当初は分かりやすい翻訳本も少なく、独学だけで実践できるほどの理解を深めることは難しかった。

「資格がほしいというよりは、とりあえず勉強がしたかったんです。簡単な試験を受ければ指導員にはなれたんですが、その程度だと全然理解できなくて。ここまで勉強したんだったら資格がないと説得力が出ないと思って、取ることにしました」

新店舗での営業と並行しながら学校に通い、ついに国際中医薬膳師の資格を取得。タビラコをオープンしてから7年半の歳月が経っていた。

時を同じくして、松陰神社前の街も変わり始めていた。新しい店が増え、行き交う人々も変わってきたことで「カフェ=ランチ」という暗黙のルールも和らぎ始める。そこで松陰PLATでの営業からはランチタイムを外した13時の開店に変え、薬膳をベースに軽食やドリンクを提供することにした。

「松陰会舘(PLATの管理会社)や周りの方たちから良くしてもらって、お客さんも『こんなお店の在り方があるんだ』と受け入れてくれるようになったからこそ、ようやく好きなことをできるようになりました。そうじゃなかったら、きっといつまでもやりたいことができなくて辞めていたと思います」

「薬膳カフェ」とは名乗らない

タビラコで色濃く薬膳を表しているのが、自家製のジンジャーシロップとその出し殻となった生姜で作るラー油、「ツブラーユ」だ。イートインのメニューに使われているほか、店頭とオンラインストアでも通年販売している。ちなみに生薬の配合は季節によって少しずつ変えているそうだ。しかし店内を見回しても、それらの説明以外に薬膳らしい情報はまったくといっていいほど見当たらない。なぜだろうか。

「中医学の性質上、全てのお客さんに合うものが必ず出せるわけでもないし、医師のような詳しい診断ができる場所でもないので、強く押し出すことは難しいんですよね。食生活のアドバイスをするにしても、家族と暮らしている人はなおさら、それぞれの体質に合わせて日々の食事を作るなんて大変ですから。何かを大きく変えるのではなく、その人が毎日食べてるもののなかにこれを少し加えてみたら、というくらいにとどめています」

それでもできる限りの調整は心がける。

「体質や体調がある程度分かるお客さんには、味に違いが出ない範囲でアレンジを加えることもあります。例えば妊婦さんは身体に熱をもちすぎないように、ジンジャーエールに少し酢を入れて和らげるとか。ちょっとのことであれば用意できる範囲で対応しています」

薬膳を強く押し出さないことには、カフェとしての余白の意味もある。「薬膳カフェ」というラベルをつけてしまったら、お客さんも自分も息苦しく感じることがあるもしれない。だから、分かりやすさは手放すことにした。

「薬膳だと言いすぎて、冷たいものは身体に良くないからと全く出さないのも違うと思っていて。夏はやっぱり冷たいものが喜ばれますから。全てのお客さんが薬膳を求めて来ているわけでもないですしね」

分かりやすさで言えば、メニュー自体にも定番は作らず、流動的に変えている。そこには中医学的な季節の変化に対応させる意図もあるが、どうやらそれだけではないようだ。

「分かりやすいものは、よっぽど美味しくないと成り立たないと思っているんです。前の店舗にいたときはチーズケーキのようなクラシックなメニューも出していましたが、今はパフェとか、ホットサンドの具もあえてシンプルではないものにしています。試作するのも好きだから、いろんなものが入ってまあ美味しいねってくらいが私にはちょうどいいかなって。自分では作れない味を食べるのが外食の楽しみだと思うので、そこだけは考えて組み立てています」

生活する目線で見る、「続ける」ということ

普段はあまり口にすることのない食材の他に、食べ慣れているものでも意外な組み合わせが多く、新しい味わいに出会う。そのワクワク感がタビラコの美味しさの要なのだが、驚くことにレシピを記録に残していないという。

「こだわりでもなんでもないけれど、残したくないという想いは強くあります。基本のベシャメルソースやパフェに入れる材料くらいは入れ忘れがないようにメモしていますが、そのときに作りたいものを作りたいし、どうせちゃんとは見ないから。去年の今頃何を出していたかも思い出せないです。

雇われていたときは、人の考えたレシピを間違えずに何度も作らなきゃいけないことに飽きてしまって。自分のお店なら飽きたらやめればいいし、残さなくてもいいからとても楽ですね。お客さんが『この前食べたあれが美味しかった』と声をかけてくれることもあるけど、私も覚えていないし、お客さんもうろ覚えだから、お互い『なんだろうね?』って。それくらいで十分なんです(笑)」

残したくないという意志は、数千年生きながらえてきた中医学とは一見矛盾するように感じる。しかし中医学が生活と深く結びついているからこそ、高橋さんはその本質を「残すこと」よりも「自分で続けること」と捉えたのだと、タビラコを見ていて思う。きっと、毎日食べたものをわざわざ書き残さないのと同じような感覚なのだろう。そんな生活する目線でお店を見つめ、自分が続けられるやり方を作ってきたのだ。

「お店を始めてから気づいたんです、ずっと回していかなきゃいけない店とうちは違うって。全部自分でやるからこそ、材料や作ったものはちゃんと食べ切れるように。いっぺんに作ると悪くなるから必要な分だけ作って、保存もきくように工夫して」

自分の生活を営むのと同じように、買ったものも作ったものも無駄にしない。ツブラーユが生まれたのも、そんな視点があったからだった。

「ジンジャーシロップを作るときに大量に出る生姜の使いみちをずっと考えていて、ラー油を作ってみたいと思っていました。新しいものを作るには相当な体力がいるので営業中は進められずにいたんですが、営業自粛のあいだは時間がたっぷりあったから(笑)、ようやくかたちにすることができました。オンラインストアも始めて、オーダーをもらった分を自分のペースで作っては発送して。人と話すのは(PLATの)隣の建築家さんくらいでしたが、そんな生活も割と楽しんでいましたね」

好き勝手に楽しんでほしい

ようやく手にした自分の店だが、タビラコは「自分のための店」でもなければ、「自分を出したい店」でもないと高橋さんはいう。

「私が絵を描いていたことを知っている人からは『自分の絵を飾ったら?』とか『もっと自分を出しなよ』と言われることもありますが、私はこの場所をつくっているだけで十分だと思っているんです。それにお店をやっている側はどうしても受け身になりやすいから、もちろんできることには応えたいと思うけれど、もしたくさん話をしたい人が来てくれても『今日は私が疲れているからごめんなさい』とはできないですし。だから基本的に、お客さんには好き勝手に楽しんでもらいたいと思っています。

ギャラリーで働いていたせいもあるでしょうね。みんな勝手に楽しんだり表現していたりしていたし、私もそういう人たちといるほうが楽しかったから。以前、あるお客さんが私とまったく話をしなかったのに『楽しかったです』と言って帰っていったことがあったんですが、これが理想だと思いました」

食事でも、飾られた絵でも、窓の外を行き交う世田谷線の音でも何でもいい。次来たときに変わってしまってもいい、楽しみ方はセルフサービスの「ご自由にどうぞ」スタイル。でも案外そのとき見つけた楽しみ方が、実はそのときの自分に最適な「薬」だったりする。

「好き勝手」を「ほどよい距離感」と言い換えることもできる。人は繋がり、距離を縮めることで得られる安らぎと同じくらい、すべてから切り離されたときの安堵も必要としているもの。だからカフェには時に人々の交わりを生み、また時には自分という生活からも他者という社会からも離れて一息つける場所として在り続けていてほしい。そしてこの距離感と横の繋がりが共存していることが、きっと心地よさを感じる街の秘訣なのだろう。この松陰神社前のように。

カフェとギャラリー「タビラコ」

東京都世田谷区世田谷4-13-20 松陰PLAT 2F
営業時間:13:00〜19:00、日祝13:00〜18:00
定休日:水曜、木曜
Instagram:@tabiraco

 

(2021/01/26)

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