バインミー専門店 ăn di & ベトナムごはんnụ

島田孝子さん

最寄り駅
祖師ヶ谷大蔵

国立成育医療研究センターのむかいにある、ちいさな戸建てが“バインミー”の専門店としてオープンしたのは、10年前のこと。「バインミーって何?」というささやきは少しずつ広がり、食べた人は口々にその味を言葉にしていく。おいしかった記憶を、人はだれかに伝えたくなるのだ。そう、おいしいものの噂が広まるのは本当に早い。今年、その ăn diの姉妹店としてnụがオープンした。こちらで食べられるのは、ベトナムでは当たり前の、いつものごはん。島田さんが伝えたかった本当のベトナムが、世田谷にやってきた。

文章:吉川愛歩  写真:阿部高之  構成:鈴石真紀子

バインミーって何? という時代に

「ăn di」がオープンしたのは、2013年のこと。今でこそそれなりに知られているベトナム料理だが、当時は「バインミーって何?」と言われるような認知度だった。近ごろはスーパーマーケットにも並んでいるパクチーさえ、まだ食べたことがない人のほうが多く、なますやお肉をパンで挟むバインミーは、とても新しい食べ物だった。

「なますって、日本ではお正月に食べるものですよね。当時は、パンになますを挟むの⁉︎ って、よくびっくりされました。そんなときにăn diに来てくれた方々のおかげで、徐々に口コミが広がり、今があります。病院の先生や研究員の方々もよくいらっしゃるのですが、アメリカで食べたことがあるという方がいたりして、懐かしいなって買いにきてくれました」

バインミーとは、ベトナムのサンドイッチだ。甘酸っぱいたれで味つけた生野菜と、チキンやハム、ハーブなどを挟む。島田さんがベトナムを訪れたとき、特に感動したのがバインミーで、これを日本の人にも食べてほしい、と思ったそうだ。

とはいえ、はじめからベトナムを目指したわけではなかった。もともと内装工の仕事をしていた島田さんは、20代半ばで会社を辞め、ワーキングホリデーの制度を使ってオーストラリアへ旅立った。そのときベトナム料理店で働いたことをきっかけに、バックパッカーとしてアジアをめぐり、ベトナムにたどりついた。

「ベトナムが好きな人はみんな同じことを言うかもしれませんが、とにかく人がとてもやさしくて、人間味のある人ばかり。はじめて行ったときに友だちができたので、それからはその人たちに会うため、たびたび訪れるようになりました。今も、ずっとつながっているんですよ」

まだベトナムの料理も文化も、日本ではたいして知られていなかった時代。帰国してからは料理の道に進むと決め、ベトナム料理店や野菜料理のカフェなどを掛け持ちして働いた。その後はケータリングやイベントでの料理提供をし、お店を持つ夢がぼんやりと整ってきた。

暮らしと仕事の両立

はじめは、都心のビルの中でバインミー屋をひらこうと考えていた島田さん。今の場所に決めたのは、予算が合わずあちこちの街で物件を探しまわっていたときに、検索で引っかかった、という偶然のめぐり合わせだった。自宅から近かったこともあって自転車で見にきたら、アンティークな雰囲気の戸建てで、砧公園にも近く、すぐに気に入ったという。

「目の前に大きな病院があったのも印象的でした。調べてみたら、子どもが長期入院することもある病院なのだと知ったんです。2階はイートインスペースにして、看病している方がちょっとでもほっとする場所がつくれたらいいな、って思いました」

バス停は目の前で、世田谷通りに面してはいるけれど、駅からは遠い。それでも、病院に来る人や働いている人、砧公園まで自転車に乗ってここを通りかかる人……、それなりの人通りがある。目を止めた人が一度食べてくれたら、きっとリピーターになってくれるはず。島田さんは自分がバインミーに出会ったときの感動を支えに、ăn diをオープンさせた。

「まあでも、残念ながら順風満帆というスタートではなかったです。はじめはテイクアウトだけだったのもあって、とても大変で。どうしようかなと思いつつも、準備を進めていた2階のイートインスペースをひらきました。そのころから少しずつ軌道にのりはじめていった感じです」

しばらく目まぐるしい日々が続き、ようやくăn diに手がかからなくなってきていたころ、島田さんは妊娠した。産後の生活がどうなるか具体的にイメージはできなかったが、みんなが働きやすいようなオペレーションを考え、スタッフの数が少なくても困らないお店づくりをしていった。

「もともと公園や病院に行く人がお客さまに多かったので、夕方以降よりもお昼の方が需要はありました。16時までにしたら、スタッフも17時ごろには帰れるし、そこから買い物してこどものお迎えに行ってごはん作って……というゆとりが持てますよね。そのぶん朝はちょっと早く来たり。働きやすい環境にすることも、長く続ける上での秘訣だなと思いました。自分のお店だからどんなふうにも変えられるし、違うなと思ったら見直せるのもいいところですよね」

窓から見えた、自分のお店

そうしてあれこれ準備を整えつつ臨月まで働き、島田さんはăn diの目の前にある、国立成育医療研究センターへ入院することになった。

「病室からăn diが見えて、なんだか不思議な感じでした。まだ生まれないけど、外には出られない。元気なのに暇。そんな数日が続きました。それまではお休みといっても、常に頭のなかにはお店のことがあったし、ぽかんとできる時間を持ったのは、ひさしぶりのことだったんです。それで病室からぼんやりăn diを見ていたら、『……もう一店舗作ろう』って(笑)。一気にコンセプトが湧き上がってきました。それでそのときに、メニューやお店の雰囲気や名前をぶわーっと書いていって」

二店舗目となる「nụ」を実際にオープンさせたのは、それからまだ少し先のことだが、病室で決めたことをほとんどそのままに、nụはできあがっている。

「わたしはパンが好きで、毎食パンでもいいっていう生活だったんです。でも年齢もあるのか、特に産後は、パンでは体力がもたないなって思うことが増えました。ママさんスタッフたちにも、しっかりごはんを食べなさいって言われて、お米を食べるようになったんです。そしたら、お米ってすごいんですよね。栄養がしっかり行き届いて、体づくりの力になってくれる。お米の大切さをしみじみ感じました」

その経験から、nụではごはんが食べられる定食スタイルを看板メニューにと考えた。そんなとき、「SISTER MARKET」の長谷川茜さんが店舗を譲渡する人を探していると知った。

「一度お話を聞きに行って、いいなと思いました。そこを視野に入れつつ自分でも探してみないと、と思っていた矢先、コロナ禍に入ってしまったんです。ようやく落ち着いたころ物件探しをはじめたのですが、これ! といったところには出会えなかったんですね。そしたら、茜さんから『まだ興味を持っていただいていますか』っていうご連絡がきたんです」

もともとSISTER MARKETがあったその場所は、ăn diからも近くてぴったりだった。とはいえ、子育てをしながら本当に二店舗もやっていけるのか……。島田さんは自問自答した。

「そのときに思ったのが、自分ひとりでなんでもやらないようにしよう、ということでした。この間もスタッフにイベントの企画をお願いしてみたら、なんだかすごく楽しそうにやってくれたんです。わたしも学ばせてもらう機会になりました。話を聞くうち、みんなにはみんなのやりたいことがあるんだということも知って……。ăn diが毎日無事に開けられているのもスタッフのおかげ。人を頼りつつ、改めてがんばっていこうって思いました」

そして2023年3月21日、nụをオープンさせた。

本物のベトナムを世田谷に

nụの定食は、どれもベトナムで食べられているふだんのごはんだ。1ヶ月に2回程メニューが変わり、取材の日は焼いた豚ロースのメインディッシュに、小さなカップに入ったたまご焼き。なますやたっぷりのハーブとともに食べるのが、ベトナム流だ。南部ではお馴染みの、カインチュアという甘酸っぱいスープも添えてある。

島田さんがもっとも力を入れたのは、ハーブとお米。ベトナムではハーブをたくさん食べる習慣があり、たとえば揚げ春巻きなら、春巻きが見えなくなるほどハーブで包んで食べる。

「食堂に行くと、ハーブがたっぷり入っているボウルが置いてあって、好きなだけ取って食べていいんです。そういう現地の味をなるべく実現できたらいいなと思って、ハーブをたくさん扱っています。今回の定食に出しているのは、スープに使っているリモノフィラという、ちょっとカレーっぽい香りがするハーブや、清涼感のあるキンゾーイ、ベトナムの紫蘇といわれるティアトーなど。まだ日本では馴染みがないものばかりですが、ベトナムでは当たり前に食べられているものを紹介したくて、日々いろいろ仕入れています」

ハーブはどれも、アジア野菜を育てている福岡県の川辺農園のもの。また、定食の味を左右する大切なお米は、さまざまなものを食べ比べ、佐賀県産の長粒米に決めた。

「ベトナムでは長粒米をよく食べるのですが、タイ米ではパラパラすぎるし、日本の普通のお米だともちもちしすぎています。日本の品種のようにおかずがおいしく食べられる側面をもちながらも、ベトナムで食べられている感覚に近いものはないだろうかと、ずいぶん探しました。それでやっと、佐賀県産の長粒米のホシユタカという品種に出会ったんです。程よくもちもちしていて、でもベトナムのおかずとも合う。とてもおいしいんですよ」

お店に入ると、SISTER MARKETのときの名残りがありつつも、やっぱり新しいベトナムのお店として生まれ変わっている。ăn diのとき同様に、内装工だったときの経験を活かして、店づくりをした。

「テーマカラーはグリーンにして、少し懐かしさのある昔のベトナムを意識したデザインにしました。内装は、上町にあるストックさんに協力をお願いしました。アイテムをいろいろ探してきてくださって、照明ももともとは古道具だったんですよ。看板は、ăn diもnụも同じ、画家の及川キーダさんに書いていただいています」

nụがある通りはとても静かだ。それでも人はおいしそうだと思うと、覗きにやってくる。ăn diのときがそうだったように、おいしい噂が少しずつ人の口にのぼり、いつしかこの街に欠かせないお店になっていくんだろう。雨が上がって湿気をたっぷり含んだ風が吹く世田谷は、なんだか本当のベトナムのようだった。

バインミー専門店 ăn di
住所:東京都世田谷区砧3-4-2
営業時間:10:00~16:00 (パンがなくなり次第終了)
ウェブサイト:https://andi-setagaya.com/
Instagram:@andi_setagaya

 

ベトナムごはんnụ
住所:東京都世田谷区砧3-17-2グランドール砧1F
営業時間:11:00~16:00
ウェブサイト:https://nu-setagaya.com/
Instagram:@nu_setagaya

定休日:ともに木曜日

 
(2023/06/30)

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