モゴ
山口泰子さん
経堂駅から伸びるすずらん通りをしばらく行くと、モゴのロゴが入ったガラスの扉が見えた。いったいどんなことが書いてあるのか、わくわくするハングル文字の本が並ぶ棚と、淡いピンクのカウンター。自分の部屋にいるみたい、と思うにはひらけた場所だけど、なぜだかそう言いたくなる空気がある。韓国の日常にある、ふつうのごはんを食べてほしい。そんな思いから、店主の山口泰子さんがモゴをオープンさせたのは、2022年の春のこと。定食のアルミトレイには、山口さんが韓国で味わってきたものをおすそわけしてもらうように、小さな副菜が並んでいた。
文章:吉川愛歩 写真:阿部高之 構成:鈴石真紀子
韓国の、なんでもないごはん
山口さんが炊飯器を開けると、なんともいえない香ばしさがカウンターに漂った。甘く、やさしい香りに食欲をそそられる。少しだけ豚肉を入れて炊いたというごはんは、トゥッペギという黒いチゲ用の鍋に盛り、丁寧にひげをとった細いもやしをのせて、直火へ。
「豆もやしは、ひげをとるのが面倒なんですよね。ざるひとつ分でも、15分くらいかかっちゃう。でも、とった方がおいしいので、合間を見つけてやっています」
そういえば扉をあけたとき、山口さんは豆もやしのひげをとっていたっけ。その豆もやしをたっぷりのせてもらったごはんは、コンナムルパプという。コンナムルが豆もやしで、パプがごはん。韓国の家庭料理だ。
定食には他にも、韓国でよく食べられている副菜が並ぶ。たまごを蒸した、オムレツと茶碗蒸しの間のようなケランチムに、ニラのジョン、トマトと白菜のキムチ。そして、れんこんの炒め物は、山口さんのお母さんがよく作ってくれたおかずだ。
「韓国には関係ないものも、ときどき作っています。仕入れに行って、今日は何にしようかな……って、もう全然計画性とかありません。その日の野菜のようすを見て、作りたいものを作ります」
山口さんは笑う。でも、そんなふうには思えないくらいバランスのよい定食だ。
山口さんがはじめて料理の楽しさを感じたのは、まだデザイン事務所でデザイナーをしていたころ。みんなの賄いを作るのが好きだったという。
子どものときから美術が好きで、美術系の専門学校に進学し、デザイナーになった。ものづくりは好きだったが、忙しさと生活の不規則さが、次第につらくなってしまったそうだ。
「うちはむかしから、家族みんなでごはんを食べる家だったんです。外でごはんを食べることもあんまりなくて、家でのごはんが暮らしの土台になっていたところがあって。だから、家で夕飯が食べられない、夕飯の時間に帰れない、という生活に、少しずつ疲れてしまったところもあります」
それに加え、デザインをするということより先に、Macやアプリケーションを使いこなさなくてはならず、仕事への気持ちは徐々に薄れてしまった。
でも、じゃあ何をしよう。
そう考えたとき、山口さんに残っていたのは、賄いを作っているときに味わえた、料理の楽しさだった。
お菓子の世界から韓国へ
デザイン事務所をやめて山口さんが向かったのは、経堂駅のそばにある、生活クラブの食材を使ったレストラン「素々」。ここで、調理の仕事をしはじめた。
「小さいころから母が生活クラブを利用していたので、食べ慣れた味なんですよね。なによりおいしいので、今もお店で生活クラブの調味料やお肉を使っています」
山口さんはレストランでの調理のほかに、店舗で販売するお菓子を焼く仕事も担った。そこで徐々にお菓子作りに興味を持ち、その後は料理家のなかしましほさんが営むお菓子店「foodmood」で働くことになる。
「お菓子製造も販売も、お店にまつわることはぜんぶ新鮮で楽しかったです。おばあさんになっても飲食の仕事をしていたい、ということは決まっていましたが、はっきりとしたテーマが定まっていなくて……。なんでも吸収するぞ! という気持ちで働きはじめました。ただ、わたしはそのときすでに30代後半で……。経験をつむにつれて、自分ならこうしたいという欲もでてきたし、先のことを考えると独立するのかな、という気持ちは持っていました」
ぼんやりした輪郭で将来を描きながら暮らしていたとき、山口さんに転機が訪れた。なかしまさんのお教室を韓国でひらくことになり、アシスタントとして同行したのだ。
「それまでに何度も韓国には行っていましたが、ひとりで行くことがほとんどでした。いつも短い滞在だったし、美術館や博物館を観るのがメインで、今思い返しても何を食べたかあんまり覚えていないんです。でも、そのときはじめて、コンビジというおからのチゲや、ウゴジタンという白菜の外がわの葉を使ったスープなどを食べました。辛くなくて、見た目もすごく地味な料理なんですけど、とてもおいしくて。それがきっかけで、遅ればせながら韓国料理に興味を持ちました」
日本で韓国料理というと、やはり目立つのは辛いものや焼き肉、チーズをたっぷり使った料理だ。今は当時より韓国の文化が入ってきているものの、山口さんが食べたような韓国料理屋はあまり見かけない。
こういう、自分がおいしいと思えるやさしい味の韓国料理を食べてほしい。
そうコンセプトが決まってからは、気持ちがぶれることはなかった。
間借りからはじまったモゴ
その後、山口さんは別の飲食店で働きながら、西荻窪のシェアカフェでビビンパをメインにした定食屋を週に一度ひらくことにした。
「そこで一年ほど定食屋をしていました。独立に向けて物件も探していたのですが、コロナ禍だったこともあり、かなりのんびりしたものでした。しかも、予算も低いし、条件に合う物件が簡単には出てこなくて……。西荻窪でこれだ! と思う物件が一軒あったのですが審査に落ちたりして、なかなかご縁がなかったんですよね。そうこうしているうちに、友だちから“芝生”のあとが空くよと教えてもらって」
「芝生」とは、カフェとギャラリーを併設したお店だ。この界隈に住んでいる人なら、場所がなんとなくわかるくらいの、11年半も続いた名店である。何より山口さんが生まれ育った世田谷区にあり、生活クラブがすぐそばの、馴染みのある街だった。
「店舗を内見して、すぐに契約したいと思いました。経堂は前の職場があった街だし、ずっと昔から知っているこの街とふたたびつながりができたことは、とても自然に感じました」
基本的な内装は「芝生」のときとそう変わらないが、ガラス扉の枠を青く塗り、自作のロゴをつけた。カウンターは淡いピンク色で、見上げるとグレーの壁が見える。その配色のバランスに、デザイナーとして生きてきた山口さんのセンスを感じる。
「尾道にすごく好きなうどん屋さんがあるんですけど、カウンターの色がピンクなんです。それにあやかって作りました。あとはもうシンプルに。パッとひとりで入れるようなお店にしたいと思っています」
お店のコンセプトは、「わざわざ遠くからくる店」ではなく、「街の人がふらっと来て食べにいく店」だという。
「あくまでもわたしが作るのは家庭料理なので、早くこの街に馴染む存在でいたいなとは思っています。なんだろう、昔からある街中華や定食屋さんみたいに、景色の一部になれたらいいなって。特別な場所にはなりたくないんです」
今、飲食店の情報はSNSで知ることのほうが多くなってきているが、お店のインスタグラムを開設したり、料理の写真を撮ってシェアしてもらったりすることにも、やや違和感があるという。
「だって、いつも行っているお店でいつも食べるようなものを注文したときには、わざわざ写真を撮ってアップしないですよね。そういう存在になりたいんです。街の中華屋さんがインスタやってるかっていうと、たいていやってない。いろいろ考えて今は開設していますが、お店を長く続けて、インスタをしなくてもお客さまが来てくれるのが理想ですね」
メニューは、昼も夜もいくつかの定食と、小さなおかずやおつまみ。季節によって移り変わっていく味を追いかけるのも楽しい。夏はコングクスという豆乳の冷たい麺や、ペスッという梨を使ったシロップが登場したり、寒くなるとマッコリ入りの蒸しパンがあったりする。
そういう「いつものごはん」が、他の誰かにとっても特別じゃなくなるようにがんばりたい、と山口さんは言った。
もっと身近になるために
今年に入ってから、山口さんはもう三度も韓国へ行った。いつも行く定食屋さんもめぐりつつ、ソウルを離れて少し違う街へも冒険している。現地の食文化探究は、何度行っても新たな学びどころが見つかる深い学問だ。
「わたしがはじめに感動したような、やさしい味つけの韓国料理は、どうやら北に近いほうの食べ物みたいなんです。なので、韓国の北東部にある江原道などにもこれから足を運んで、どんなものがあるのか見に行きたいなと思っています」
壁に貼ってある地図を見ると、韓国は思ったよりもコンパクトにまとまっていた。それでもこの中で、街それぞれに食文化があり、行くたびに新しい発見がある。
先日、山口さんは初めてテンジャンという韓国の味噌を仕込んだそうだ。韓国の味噌は、日本の味噌とは作り方も味もまるで違っておもしろい。
「テンジャン作りは、はじめに大豆を蒸して潰したものを四角く成型するところからはじまります。それを藁でくくって干すと、枯草菌の力で発酵が進むんですね。これをメジュといいます。メジュは味噌の素にもなるし、しょうゆやコチュジャン作りにも使われます。それを塩水と一緒にオンギという瓶の中に入れて発酵させると、テンジャンができあがるんですが、メジュから作るのはとても難しいんです。わたしは旅行先でメジュを買って、塩水に漬けるところからはじめました。まだ冷蔵庫で熟成させているとろなので、できあがりが楽しみです」
できあがったテンジャンは、納豆のような独特の香りがするという。チゲの味つけに入れたり、煮物や味噌汁に使ったりするそうだ。
チャレンジしているものは他にもある。もう少し現地の人との会話が楽しめるよう、韓国語の習得にも力を入れているのだ。
「ちょっと旅行するくらいなら困らないんですけど、市場の人ともう一歩深く話して買い物できたらいいなと思って。2年後にはある程度話せるようになる予定で勉強しています」
キムチももっと大量に仕込めるようにしたいし、テイクアウトも充実させられたら、とか、やりたいことや考えるべきことはたくさんだ。オープンして一年と半分。まだバタバタした日が続くけれど、新しいことにチャレンジするゆとりも、少しできつつあるのかもしれない。
韓国語のラジオが流れる店内で豆もやしのひげを取りながら、山口さんは次に訪れる街のことを考える。わたしたちが知らないだけで、そこにはその街の人を支える食べ物がある。特別な日に食べためずらしいごはんじゃなく、家族としか食べないような地味なものかもしれないけれど、結局それが生活の、わたしたちの暮らしの、土台になっているのだろう。
モゴ
住所:東京都世田谷区経堂2-31-20
定休日:水曜、木曜
営業時間: 11:30〜14:30/18:00〜21:00 (日曜はランチタイムのみ)
インスタグラム:@mogo_pap