東果堂

岩槻正康さん

最寄り駅
若林

3年前、若林の駅前にケータリングをメインにしたフルーツの専門店ができた。オーナーの岩槻さんはエシカルフルーツに向き合い、このお店を出すことに決めたそうだ。エシカルとは「道徳的」「倫理的」という意味。よりよい社会を作るために、考えて暮らすことをいう。規格外や虫食いなどで棄てられてしまうフルーツに、新しい価値を見出す。それが東果堂のポリシーだ。人が手を加えれば、棄てられるはずのものだって、美しくなっておいしく食べられる。ケータリングやイベント出店などを通して岩槻さんが作り出す世界を取材した。

文章:吉川愛歩 写真:阿部高之 構成:鈴石真紀子

循環できる世の中に

東果堂に入ると、大きなロゴが描かれたフラッグが目に入った。ロゴの上下には「エシカルフルーツ」という言葉と、「いつでも食べれて みんな同じなんて つまらない」という文字。東果堂では正規品に加えて、一般には流通しづらい、いわゆるB品と呼ばれるフルーツを引き取り、さまざまな形に変えて販売している。

たとえばドライフルーツ。フルーツをスライスして低温のオーブンで乾かすと甘みが増し、保存性を高められる。そもそもB品とされるのは見た目の問題が大きく、味には何ら変わりがないので、ドライフルーツになるとB品も正規品も見分けがつかない。

それからジュース。この日は、皮に傷みや虫食いの跡が残ってしまったりんごが段ボール箱いっぱいにあり、それを丁寧に吟味して、可食部をジューサーで搾って販売していた。いつも同じフルーツがあるわけではなく、その日によって素材は変わる。岩槻さんにも、その日何が仕入れられるかはわからない。

ちなみに、これからの旬はりんごや洋梨、みかんやオレンジなどの柑橘類と、11月ごろからはじまるいちご。自然の影響を受けやすく、旬の移り変わりが早いフルーツとの出会いは、一期一会といってもいい。

「ジュースの搾りかすは、下北沢の駅前で活動しているシモキタ園藝部が作る堆肥の肥料にしてもらっています。街の植物の手入れをしてくれている市民グループで、たまたまイベントのときにつながったんです。搾りかすやフルーツの皮は捨ててしまえばただのゴミですが、そうやってまた誰かが新しい使い方をしてくれると、価値のあるものに生まれ変われる。堆肥の発酵にフルーツはとてもよいらしくて、喜んでもらえるのも嬉しいし、僕らもゴミにしなくてすむ。事業者はゴミを捨てるのにもお金がかかるから、環境問題的な観点だけでなく、コスト削減にもなっているんですよ」

世田谷区の中で、そんなふうにぐるぐると仕事やお金が循環するといいですよね、と岩槻さんは言った。

「こういう社会的な活動は、本当は公言せずにやるのがかっこいいんですけどね。エシカルフルーツを登録商標にしてしっかり謳っていこうと思ったのは、やっぱりそういうフルーツが存在することをたくさんの人に知ってほしかったから。使いきれないときもありますが、地道にこつこつと長く続けていきたいなと思っています」

救えるフルーツに目を向ける

岩槻さんがフルーツの仕事と出会ったのは、約15年前。フタバフルーツという中野区にある青果店に入社したのがはじまりだ。店舗を運営しつつ、社長とふたりでイベント事業を立ち上げた。

「柔軟な会社だったので、こういうサービスはないかとお客さまに聞かれて、できることを形にしていった感じです。イベントにフルーツを持って来られる? とか、ケータリングしてほしいんだけど……と言われたことをきっかけにして、少しずつできることを広げていきました」

岩槻さんはそう話しながら、器用にりんごの皮にデザインを彫ってくれる。フタバフルーツ時代に、独学でカッティングの練習をはじめ、今ではこんなふうにフルーツにメッセージを彫るのも、東果堂の人気サービスのひとつだ。

今回は、「せたがやンソン」のロゴを彫ってもらった。ロゴやフォントをプリントした紙を見ながら、カッティング用の小さなナイフで彫っていく。下書きもなしに彫りはじめられるのは、岩槻さんがむかしデザイナーだったことが大いに関係しているのだろう。

岩槻さんのカッティングフルーツは、最後にちゃんと食べられるように作るのがポイントだ。

「カットすると、断面が変色してしまうので、一般的にはみょうばん水に浸けたりして、変色を防ぐんです。でもそうすると、食べられなくなってしまうんですよね。それではあまりに悲しいから、僕はレモンを搾る程度のケアをするだけで、見て楽しんだ後、ちゃんと食べてもらえるように作りたいんです」

フルーツは旬がはっきりしている上に鮮度が落ちやすく、店頭に出しておける期間も短い。市場にはそんなB品フルーツが山ほどあり、仕入れに行くたび岩槻さんの胸を刺した。本当はみんなでおいしく食べられるはずなのに、ただ見た目に問題があるというだけで、廃棄されてしまうことが多い。でも、どうしたらいいかわからない。世の中的にも、エシカルやSDGsという言葉が表面化してきたころで、岩槻さんは自然と、フルーツの行く末について考えるようになった。

「市場には、本当に処分されるしかないフルーツがたくさんあるんです。食べられるし、味には変わりないけれど、だからといってそういうものを積極的に仕入れるのもなかなか難しい。自分たち買い手の努力が足りないことはわかっていても、どうしたらそれを商売に結びつけられるのか……ずっと考えてきました」

その点、ケータリングとエシカルフルーツはとても相性がよかった。加工したり、皮を剥いてカットしたりすれば、B品でも十分きれいでおいしいと思ってもらえる。少し人の手が加わるだけで、廃棄されるはずのフルーツは生まれ変わることができるのだ。

「ケータリングを柱にして、エシカルフルーツが活かせる仕事を、もっと自分のやり方でやってみたい。そう思って、独立しました。でも、独立した直後にちょうどコロナ禍になって……。イベントやケータリングは全部なくなりました。あのころは、代わりに店舗でフルーツやジュースを売ったりしていましたね」

そんなスタートだったが、岩槻さんはどんと構えていた。ここまでの道のりの方が、紆余曲折あって大変だったからかもしれない。

めぐりめぐった先に

岩槻さんはもともと、デザインの仕事を目指していた。大学を休学して、さまざまなアルバイトを経験していたときに見つけた、好きなことのひとつだ。

「アルバイトで飲食店に入ったんですけど、ホールスタッフとキッチンスタッフの仲がものすごく悪くて、とても険悪な雰囲気だったんです。それで、飲み会を企画してフライヤーを作りました。見よう見まねのデザインでしたが、すごく喜んでもらえて。スタッフの仲もよくなって、バイトするのも楽しくなって……。デザインっていいなと思った瞬間でした」

その後、友人のバンドのTシャツをデザインしたり、Macを使ってチラシなどを作ったりしながら、本格的に印刷会社で仕事をはじめた。
仕事は楽しかったが、当時の印刷会社といえばなかなかの仕事量。夜中に対応することも多く、午前3時に帰宅するようなことも珍しくなかった。そんなあまりの仕事ぶりを、親にはわかってもらえなかったという。

「それで、そんなにデザインの仕事がしたいなら、アメリカの美大に留学したらどうか、と親に言われました。あー、行ってみたいかなぁ、なんて軽く返事をしていたら、いつの間にか決まっていて(笑)。気づいたときには行くしかない状況でした。結局、親のつてでニューヨーク郊外の知り合いの事業を手伝いながら、州立大学に通うことになったんです」

そうして休学していた日本の大学はすっぱりと辞め、アメリカの大学でデザインの勉強に本腰を入れることになった。しかし、岩槻さんがアメリカに降り立ったのは2001年の8月。そう、アメリカ同時多発テロの1ヶ月前のことだった。

「行ってすぐに、あの事件がありました。間違いなく歴史の1ページになるような日を、あまりに間近で体験してしまい、本当にいろんなことを考えました。平和・自由・戦争といった、自分の中で理解できていなかった抽象的な言葉に、ひとつひとつ定義づけをしていって落ち着いていったというか……」

多くの人種が一同に暮らす街で、宗教のことや国同士のこと、戦争のことなどの本質にはいったい何があるのか考えながら3年を過ごし、帰国した。ずっと向こうで暮らす選択肢がなかったのは、いつか日本の役に立つことがしたいと、強く思いはじめたからだという。

自分に何ができるのかはわからなかったが、きちんと就職活動をしてみようか。
そう考えていた矢先、先輩から声をかけてもらった。ニューヨークからやってきた食のセレクトショップ「ディーンアンドデルーカ」での仕事だった。当時はまだ品川本店のほかに2店舗しかなかった、フレッシュな企業。デザインの仕事に関われるならと、入社を決めた。

トレンドを作るような最先端のデリショップでは、目新しい食材や味、食材の組み合わせにたくさん出会った。現在のケータリング事業をする上で学んだ部分も多いという。
ただ、もともとデザインと英語力という、NYにいた経験を買われて入社したにも関わらず、1年たっても配属はデリストアの販売だった。

「当初の話と違ったので、交渉してクリエイティブに関わる部署に変えてもらえるようお願いしました。でも、移動した先はデザインではなく、Webショップの店長でした。それはそれでとても学びは多かったですけどね」

とにかくフルーツを食べてもらうこと

任されたwebショップはECサイトの仕組みすらできていなかった。自分で商品の写真を撮って掲載し、注文が入ると梱包して宅配便にのせる。そんな手作業が続いたという。

「1年くらい続けましたが、そこである程度土台が作れたのと、デザイナーとして仕事をしたいという思いが募って辞めました。そこからは不動産ディベロッパーでデザインをしたり、派遣社員として出版社で働いたり……。いろんなことやりましたね。そのあたりからだんだんと、ディーンアンドデルーカで得た飲食の知識を使って飲食業をしたいな、と思いはじめ、飲食店の開業について学ぶ専門学校に行くことにしました」

その専門学校でフタバフルーツの社長と出会い、そこから流れるように岩槻さんはフルーツの仕事に傾倒していった。

独立を決めてからは、ケータリングの宅配で動きやすいよう、環七沿いを中心に世田谷区で物件を探しはじめ、条件にぴったりの物件を友人のユーゴさんが紹介してくれた。あまりにも希望にマッチしていたので、他の物件は一軒も見なかったという。

独立してからはさらに手を広げ、イベントや展示会などへのケータリングのほか、オフィスへのフルーツ置き型サービスも手がけている。

また、羽田空港の出発ロビーにポップアップストアを出店(2024年1月まで)したり、三軒茶屋のふれあい広場で毎年行われる「SANCHA HAVE A GOOOD MARKET!!!」でもフルーツを売ったりと、活躍の場はますます増えるばかりだ。

岩槻さんのいちばんの目標は、「みんなの口にフルーツを放り込んでいく」こと。

「美味しく、楽しく、余す事なく」届ける、というのが東果堂の企業理念だ。おいしいものを食べると、それだけでストレス解消になったり、癒しの時間が過ごせたりする。そうやって笑顔になる人が増えるよう、岩槻さんはさまざまな形でフルーツを届けている。

ただ、フルーツは美しくて贈答用にもよく選ばれる一方、高価で、皮を剥く手間があったり、ひとり暮らしだと食べきれなかったりもする。

「食べる人は食べるけど、食べない人は全然食べないんですよね。そういう人たちの口にフルーツを放り込むのが、僕の仕事だと思っています。月に一度お店で開催している『お刺身フルーツ』というイベントも、シンプルに、とにかくおいしく食べてもらおうという企画なんです。スパイスやハーブなどで味つけしたり、お酒とのペアリングをしたりして、まるでお鮨屋さんのようにフルーツを出して、食べていただいています」

フルーツの持つポテンシャルは高い、と岩槻さんは言う。たしかにどんな種類のフルーツも、年を追うごとに劇的な進化を遂げている。皮まで食べられたり、タネがなかったり、可食部が多くなったり、えぐみがなくなったり、育てやすかったり。

新しい品種は日本中で開発され、わたしたちのもとに届く。もっとたくさんの人に愛されるように変化し、おいしさを共有できるように。食べたらきっとそのおいしさを忘れられなくなって、旬の季節がくるたびに思い出してしまうだろう。そうなったら岩槻さんの勝ちだ。

東果堂
住所:東京都世田谷区若林1-24-9 KEIビル1F
定休日 : 火曜、水曜 (※ケータリングやイベント出店がある場合、臨時休業もあり)
営業時間:11:00〜19:00
ウェブサイト : https://www.tocado-fruit.tokyo/
インスタグラム : @tocado_fruit

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