POPPY COFFEE and BAKERY
松本海央さん、石田香月さん
駒沢大学駅から松陰神社方面へ10分ほど。住宅街を抜けて、向井潤吉アトリエ館の脇を通り過ぎ、弦巻通り沿いに出たあたり、人の暮らしがにじむ街のグラデーションの中にお菓子とコーヒーのお店「POPPY COFFEE and BAKERY」は佇んでいる。店の前に立てば、扉を開かなくとも焼き菓子のあまくやさしい匂いがふわりと漂い、それは心の奥のやわらかいところにそっと届く。そして、店内で過ごすひとときはもちろん、持ち帰ったお菓子を食べているときにも、この感覚は不思議と蘇る。POPPYを訪れると、日々の緊張や不安が解け、あたたかな気持ちになるのはなぜだろう。その理由が知りたくて、お店を立ち上げた松本海央さんと石田香月さんを訪ねた。
文章:内海織加 写真:阿部高之 構成:鈴石真紀子
外にいるような心地よさと焼き立てのいい匂い
木のフレームが印象的な大きなガラス扉をスライドさせて、一歩。自然光が気持ちよく差し込む店内は、外と内の境界線は超えているのに、なぜだか屋外にいるような解放感があった。小さな棚には、季節の焼き菓子が10種類ほど。そのおいしそうな焼き色を眺めているだけで、幸せな気持ちになる。東京にいることを一瞬忘れてしまいそうな、ゆったりとした心地よさはなんだろうと不思議に思っていたのだが、ふとレジ横に視線を移すと、栃木県・黒磯からはじまったコーヒー店、SHOZOのアイテムがずらり。店名には記載がないものの、ここがSHOZOの姉妹店だと知って、腑に落ちた。
しかしながら、このお店は所謂SHOZOとはちょっとちがう展開。「ここは、わがままを通させてもらったお店。チャレンジショップみたいな感じでやらせてもらっていて、本当にありがたいなと思っているんです」と話すのは、POPPYを立ち上げた松本海央さん(以下、海央さん)。にこにこっと目を細めて笑うチャーミングな表情が印象的だが、発する声の中にスッと通る芯のようなものを感じて、惹きつけられてしまう。東京都・北青山のSHOZOと大きくちがうのは、売り場の奥にお菓子を焼くベーカリーがあるところ。店名に入っている“BAKERY”こそ、このお店のこだわりなのだ。
「2021年8月末まで南青山のCOMMUNEというスペースにあったSHOZOでは、那須の本店で作って個包装した焼き菓子を並べていて、本店の味としてよろこんでいただいていたのですが、ロンドンの『Violet Cakes』というお店を訪れたときに、焼き立てのお菓子を並べている光景がとてもいいなと思って。その場でつくったフレッシュなもの、そして季節感のあるものをお店でもっと届けられたら、と思っていたんです(海央さん)」
奥のベーカリーの壁にはかわいらしい菓子守りが飾られ、熊手の七福神はにこやかにお菓子が作られる様子を見守っていた。そして、作業台の上には、今か今かと出番を待つ洋梨やころんと丸い蒼月かぼちゃ。「ここにいると、今年は桃がちょっと早いなとか、そろそろ栗仕事の季節だなとか、食材で季節の移ろいを感じるんですよ」。そう言って溢れんばかりの笑顔で迎えてくれたのが、立ち上げからお店作りに関わり、今ではPOPPYのお菓子づくりを支える石田香月さん(以下、香月さん)。海央さんが新店のことを考えはじめた時、まず声をかけたのが香月さんだったという。
「香月さんは、もともと南青山のSHOZOによく立ち寄ってくださるお客様でした。そこまで深い会話をするほどではなかったのですが、なぜかとっても気になって。それで、ある時に一緒に働きませんか? と声をかけたんです。南青山店で一緒に働いている時に作ってきてくれたお弁当やお菓子が素敵で、季節そのもの! という感じ。お料理やお菓子を作ることが好きということも知っていたので、このお店はぜひ香月さんにも力を借りたいと思って。彼女は形にできる人なので、それがすごいと思いますし、このお店にとって大きな存在なんです(海央さん)」
香月さんが形にするのは、実はお菓子だけではない。ラッピングペーパーやショップカードに描かれた絵、アイスクリームのかわいらしい看板やお店で扱っている紅茶ブランド「ouvrir(ウヴリール)」のパッケージも彼女によるものと知って、その多才ぶりに驚いた。
ふたりの“好き”を紐解き、大切に形にしたお菓子たち
海央さんにお気に入りのお菓子をお聞きすると、「香月さんの季節のガレットが大好きなんです」と。その口ぶりは、お店の人というよりPOPPYのお菓子の純粋なファンという感じでかわいらしい。ガレットは、パイ生地の上にやわらかなアーモンドクリームが敷かれ、その上に果物のコンポートがのっている手のひらサイズのお菓子だ。マフィンやキッシュなど具が変わるものや、時期によって登場するシーズンアイテムも多いが、ガレットは果物でよりダイレクトに季節を感じることができる一品。一口いただけば、サクっ、フワっ、ジュワっ、の三重奏で食感も楽しく、粉の風味とバターの香り、果物の華やさが鼻に抜けて思わずうっとりとしてしまう。「海央ちゃんは、食べるたびにおいしい! って言ってくれるんです」と、香月さんは嬉しそうに目を細めた。
「2019年に海央ちゃんとサンフランシスコへ視察を兼ねた研修旅行に行ったんです。目的地のひとつが、バークレーのレストラン『シェパニーズ』。その時に体験したプラムのガレットがとてもおいしくて。そこでは大きく焼かれたものをカットして提供していたのですが、手のひらサイズのこんなガレットをお店で出せたらいいねと話していて、それがやっと実現した感じです。ガレットの生地は、試行錯誤を経て完成したものなので、個人的にも思い入れがあるんです(香月さん)」
季節のお菓子ももちろん魅力的だが、通年お店に並ぶスタンダードなお菓子には、無性に欲してしまう素朴なおいしさがある。それを伝えると、「そうなんですよね〜」とこっくり頷く海央さん。中でもミルクの甘さがゆるやかに心地よく届く定番のバターミルクビスケットは、口当たりがふわりと軽く、毎回あっという間に食べ終えてしまう。
「このバターミルクビスケットやバナナブレッドは、海央ちゃんに手渡された『Violet Cakes』のレシピ本を参考に試作を繰り返すところからはじまり、最終的にお砂糖の量をかなり控えめにして、自分が本当においしいと思えるオリジナルレシピに仕上げたもの。たまにお店で焼いたものを食べてみて、素直においしいって思えると、あーよかったって安堵するんです(香月さん)」
どんなものでも、誰かと一緒にひとつのものを作り上げるのは、簡単なことではない。だからこそ、POPPYを立ち上げるにあたって、ふたりがどのように意見を交わし、どんなふうにお菓子の方向性を決めたのかが気になった。
「お店を立ち上げる前に、好きなものや好きな味を照らし合わせてみよう! っていうのは、丁寧にやりました。『塩見のパンが好き』『私も好き』みたいな感じで具体的に細かくお互いの“好き”を確認し合って、あらためて感覚が近いこともわかったんです。好みの甘さや苦手なものもとことん話して、ふたりの好きなものをベースにお菓子の方向性を決めていきました。今お店で出しているお菓子のレシピは、私が作っているものと、数軒隣のカレー屋さん『Indian Canteen AMI』店主の伊藤恵美さん(以下、エミさん)がご縁を繋いでくださったパティシエの鶴見昂さんに監修していただいているものが半々くらい。鶴見さんは、コミュニケーションの中で私たちふたりの“好き”を見事に汲み取って、レシピに落とし込んでくださっているんです(香月さん)」
そんな話をお聞きしていた矢先、図らずも鶴見さんがお店に登場するという偶然が起こる。タイミングの良さにも驚くのだが、実は、彼との出会いもなかなかすごい。
「存在はInstagramで存じ上げていて、投稿で所属していた会社を退職されたと知ったので、協力していただけたりしないかしら、なんて淡い期待を抱いていたんです。それをAMIのエミさんに軽くお話ししたら、『近くにいるから呼んでくるね!』って(笑)。当時ご近所にお住まいだった鶴見さんをすぐにご紹介くださって、今ではすっかりお世話になっています(海央さん)」
あまりにスムーズかつスピーディーな展開に、これが世に言う“引き寄せ”というものか! と感心してしまう。
夏に限らず年中食べたくなるアイスクリームも、鶴見さんのレシピで作られているPOPPYの定番アイテム。桃のアイスクリームを一口いただくと、桃以上に桃! お店で焼いているコーンは香ばしく、アイスクリームを引き立てる軽さが絶妙だ。11月から登場したスワンのシュークリームも鶴見さん監修で仕上がった逸品。クリームの中には、小さなサプライズが隠れているのだが、それは食べてみてのお楽しみ……!
知らなかったからこそ辿り着いた心地よい街
ところで、そもそもPOPPYはなぜ世田谷の弦巻にお店をオープンしたのだろう。物件を探していて、この場所に辿り着いたとばかり思っていたら、まさかの全くの逆だった。
「南青山のSHOZOによく立ち寄ってくださっていたAMIのエミさんから、お店の数軒となりにそのまま使えそうな物件が空いたよ、と教えてもらったのが2021年の冬のこと。ここは、30年以上もこの街で愛されていた『アン・スリール』というお菓子屋さんで、物件を見せていただくとお菓子を焼く場所も道具も残っていたんです。それまで新しいお店をはじめるなんて考えていなかったのですが、この場所を見たらやってみたい気持ちが膨らんでしまって、会社で何度もプレゼンをしました(海央さん)」
物件をきっかけに湧き上がった衝動をそのままに、風を受け波に乗るように形にしてしまうのは、さすが海央さんの軽やかな行動力だ。
しかし、この場所は駅から歩いて十数分はかかる立地。お店を営むには、少しだけ勇気がいる場所のように思えるのだが、駅近くではないからこその時間の流れもあると言う。
「今思えば、この地域に馴染みがなかったからこそ、この場所にお店を持つことを考えられたのかもしれません。今ではご近所の方が来てくださるのも嬉しいですし、せかせかすることなく、ゆったりとした時間の中でお菓子を作ったりお客様とお話しできたりする感じもいいなと思っています。(海央さん)」
そのまま使えるというエミさんのアドバイス通り、POPPYには前のお店から引き継いだものがいくつも残っている。ベーカリーの奥に置かれた大きなオーブンは昭和元年製という刻印が残っているのだが、もうすぐ100年とは思えないほどきれいで、ずっと大切に使われてきたのがよくわかる。店の内装はシンプルであたたかなデザインに一新されているが、デザイナーからの提案で、店頭の棚は壊さずそのまま生かし、お菓子の棚はそのトーンにマッチするように作ったそう。物件を単なるスペースとして見るのではなく、そこで営まれたものや積み重ねてきた時間、集った人々を愛しむ気持ちが伝わって、心が温かくなる。
ご縁と気持ちのいい追い風に導かれ季節はめぐる
昔と今が混じり合う店内を眺めていると、壁に飾られている絵と目があった。描かれているのは、店名のお花、ポピー。店名にちなんで飾られているのかと思いきや、絵との出会いの方が先だそう。
「この店をはじめる話もまだない頃、小池アミイゴさんの個展で、熊本のポピーを描いたというこの一枚に出会って一目惚れしてしまったんです。いつか自分でお店をやるときには飾れたらいいなと思っていたので、ここに飾ることができて嬉しくて。店名が決まるまでは、この絵をきっかけに店のことを“ポピー(仮)”と呼んでいました(笑)。いくつか店名候補はあったのですが、音の響きもかわいいですし、覚えやすいのもいいなって思って“(仮)”が取れて正式な名前になりました。今は気に入っています (海央さん)」
このポピーの絵、実は香月さんにとっても印象深い一枚だったそう。
「ある日、海央ちゃんのお母さんから届いた荷物の中に、アミイゴさんの個展のフライヤーが入っていて、そこにプリントされていたのがこのポピーの絵でした。裏にLOVEってメッセージが書かれていたのも嬉しくて、家の冷蔵庫に貼って毎日眺めていたんです。後に、まさかこの絵が飾られる店で働くことになるなんて思ってもいませんでした(香月さん)」
聞けば聞くほどに、POPPYのはじまりやおふたりの深い縁には、シンクロニシティを感じずにはいられない。動物的な感覚で自分たちに相応しい風を軽やかにつかまえる海央さんと、豊かな感性を存分に広げて目指すものを気持ちよく形にしていく香月さん。おふたりの、似ているけれどちょっと違うそれぞれの色と、野の花のような軽やかだけど芯のある在り方が、絶妙なバランスでこのお店に気持ち良い風を通し、POPPYの土をほくほくと豊かにしているのだろう。
「ここに至るまでにはいいことばかりではなかったですし、香月さんとぶつかることだってたまにはあるんですよ(笑)」なんて、海央さんはいたずらっぽくふふふっと笑うのだが、これまでの不思議な巡り合わせを聞いていると、そういう平坦ではない道のりも含めて、全てがよい流れの中にあるとしか思えない。
お店のこれからをお聞きすると、「そうですね、変えていきたいことはそんなになくて、これからも季節の風をちゃんと届けるっていうことをしていきたいんです」と海央さんは言葉を丁寧に選ぶように話してくれた。季節の変わり目は春夏秋冬よりもっと細かく繊細だが、街中の百日紅が夏を知らせ、金木犀の匂いが秋の訪れを感じさせてくれるように、POPPYのお菓子はきっとこれからも、焼き立ての匂いと共に移りゆく季節の彩りを教えてくれる。
POPPY COFFEE and BAKERY
住所:東京都世田谷弦巻2-8-17
営業時間: 11:00〜18:00
定休日:水曜、木曜
インスタグラム:@poppy_tsurumaki