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下村祐一さん、成恵さん

最寄り駅
豪徳寺

豪徳寺駅から歩いて2分。飲食店やスーパーが立ち並んだにぎやかな商店街の一角に、こぢんまりとしつつも文化的な豊さに満ちた空間が現れる。花とアナログレコードのお店、ハッカニブンノイチ。ほのかな甘い香りに導かれて店内に足を踏み入れると、右側には色とりどりの花々、左側にはボックスに入ったたくさんのレコードが。夫婦で営むこのお店は、下村成恵さんが花を、夫の祐一さんがレコードの販売を担当している。ありそうであまり見たことのなかった組み合わせにワクワクしながら、ディグる(レコードを掘り起こす)ような気持ちでおふたりに話を聞いた。仕入れのこだわりやお客さんとの交流、豪徳寺にお店を開いた理由について。

文章:原航平  写真:阿部高之  構成:鈴石真紀子

花と音楽に包まれ、気づくと心が踊りだす

「ハッカニブンノイチ」という、聞く人によっては不思議な印象を残すお店の名前。これはイタリアの巨匠、フェデリコ・フェリーニが1963年に撮った映画のタイトルから取られている。若い世代にはあまり馴染みのない映画だけれど、なかには「若いころに見たわ」と懐かしみながら会話を弾ませるご高齢のお客さんもいるのだとか。

「この映画のダンスシーンがふたりとも大好きで、なるべく“踊っているように見える”花を仕入れてくるように意識しています。自然的で、茎の伸び方や花のつき方に動きがあるものを」(成恵さん)

踊っているように見える花々とは、なんと美しいことか。店内には祐一さんがかけるレコードから軽快な音楽が流れ、そのリズムに合わせて花が愉しく揺れているようにすら見えてくる。いや、もしかしたら素敵な花々に囲まれて、自分の心が踊り出しているのだろうか? そんなことを考えながらうっとりしていると、すかさず祐一さんが「あとは花持ちのよさが特徴でーー」と、仕入れのこだわりをまだまだ話し足りない様子。

「珍しい花が多いですね、と言っていただくこともあるのですが、実際は花持ちのよさに一番こだわっていて。一本一本、自分たちの目で見て手で触れて茎の強さを確かめたりしています。品質に信頼がある生産者さんはリストにしていますね。市場での仕入れは早朝3時ごろから始まるのですが、私たちは滞在時間がかなり長い。なぜなら、3時になれば一斉にドンと並ぶのではなく、6時や7時ごろまでの時間でちょろちょろと花を表に出してくる仲卸業者さんもいるからです。だから最後の方までちゃんと見て、本当にいいものを見極めています」(祐一さん)

市場が開いているのは月、水、金。その3日間は欠かさずふたりで車に乗って仕入れにいき、お店には常時80〜100種類ほどを並べている。お客さんからの予約分を除けば、品種は事前に決め込まずにその場のフィーリングで選んでくることが多いという。もともと花は成恵さんの持ち場だったけれど、一緒にお店を続けるなかで祐一さんもかなり詳しくなってきた。

「母親が花屋でバイトしていたことがあったので子どものころから少し馴染みはあったんですけど、本格的に花と向き合うようになったのは店を始めてからですね。初めのころは市場で可愛い花を見つけると妻に内緒で仕入れたりしていたんですけど、すぐに茎がへなってしまって怒られました(笑)。やっぱりプロの見極めがあるんだなと。僕は仕入れた花の品種や産地、売れた本数などを毎日書き留めていて、そうすると1年間の流れとか売れ筋が見えてきて、今ではどんどん面白くなっています」(祐一さん)

新たな出会いが生まれ続ける場所

そんな祐一さんが学生時代から集めてきたコレクションを中心に販売しているのが、花の向かい側にぎっしりと並んだアナログレコード。映画のタイトルを屋号にしていることもあり、サウンドトラックのレコードが多いのが特徴。VHSとDVDの間に一時期普及したレーザーディスクも販売している。『カッコーの巣の上で』や『時計じかけのオレンジ』など、懐かしい作品も。どれもこれもジャケットが抜群にカッコよく、再生する機器がなくともインテリアとして部屋に飾っておきたくなる。

「ほとんどが私物ですが、どんどん放出しているといつかなくなるので、新品や中古の仕入れもするようになりました。ただ、自分が好きなものしか置いていないのは一貫していますね。量が多すぎても見ていられないので、闇雲にジャンルを増やすんじゃなくてコンパクトにささっと見られる感じに凝縮しています。お客さんには、皆さんが普段聴いているジャンルではないような、知らなかったものを提供できたらいいなと思っていて。できる限り会話をしながら、ときにはお店のレコードで実際に試聴してもらうことを大事にしています」(祐一さん)

「まだ見ぬ出会いを」という思いは、レコードの並べ方にも表れている。普通であれば「ロック」や「ジャズ」など音楽ジャンルで分類されることが多いけれど、「心の平穏を保つ音楽」や「花ジャケット」といった区分けをしていて、その中には映画のサントラもロックもジャズもポップスも混ざり合っている。パラパラと眺めていると思い出深い映画タイトルも飛び込んできたけれど、よく見るポスター画像とは異なるビジュアルがジャケットに使われていて、ここにも意外性のある再会が待っていた。一枚一枚のレコードのプライスカードには祐一さんが手書きでしたためたコメントがあり、その音楽の素晴らしさだけでなく祐一さん自身の思い出も綴られていて思わず微笑んでしまう。

「レコードを買ってくださるのは男性客が多いんですけど、そこからゆくゆくは花の方にも目を向けてもらえるようにしたいなと思っていて。実際にそういうお客さんも何人かいらっしゃるんですよね。最近はレコードをまったく買ってくれなくなって、花ばっかりになっちゃった人もいます(笑)」(祐一さん)

「カップルで来てくださる方々もいて、彼がレコードを漁り、彼女が花を選んでいるような風景に出くわすこともある。その景色をここ(レジカウンター)から眺めるのが好きです」と成恵さん。まるでドラマのワンカットみたいだけれど、それも「花と音楽」という組み合わせならでは。話を聞いているとお客さんとの交流エピソードがたくさんあるようで、特にレコードの試聴時間が、プライベートな会話の弾む余白になっているという。たしかに、包容力のあるこのおふたりにならばなんでも話してしまいそう。

「カップルで通ってくださっていた方がプロポーズの花束を頼んでくれて、結婚してからもたびたび訪問してくれるようなこともある。それはありがたいですね」(祐一さん)

花を買って帰る人が多い、豪徳寺という街で

音楽やレコードとの出会い、新しい趣味との出会い、お客さんとの出会いーー。そうしたいくつもの出会いを尋ねていると、祐一さんと成恵さんの馴れ初めやハッカニブンノイチができた経緯も気になってくる。

もともと祐一さんは、音楽や映画ソフトの卸売販売を行う企業で30年にわたって営業を担当していた。音楽・映画レーベルの仲介となって、CDやDVD、レコードを置いてもらうためにショップへ働きかける仕事だ。大阪や東京を異動で行ったり来たりしていたが、成恵さんと出会ったのは名古屋に転勤したときのこと。当時、名古屋に住んでいた成恵さんは、結婚式場のブーケやテーブル装花といったウェディングフラワーをつくる会社で働いていて、先輩に連れていかれたバーでたまたま祐一さんと出会ったのだという。

「映画の趣味が合ったりして、話が弾んだんですよね。『8 1/2』はダンスシーンが好きだという話をしましたけど、お互いにミュージカル映画も好きで。『ロシュフォールの恋人たち』とか『ウエスト・サイド物語』の話で盛り上がったのを覚えています。結婚記念日は8月7日で、は(8)な(7)=花の日なんです」(祐一さん)

祐一さんが再び東京へ転勤になったタイミングで、成恵さんも会社を退職して一緒に上京。いつか店舗を持つことを目標にしつつ、最初は自転車のカゴに花を積んで移動販売を始めた。アキ・カウリスマキの映画『コントラクト・キラー』に花を手売りするヒロインが登場するが、それを見て自分もやってみようと思い立ったのだという。十条や巣鴨、池袋、新宿、銀座といった街を自転車でまわり、物件探しの意味合いも込めながら続けていると、素敵な縁に巡り合う。

「僕のサラリーマン時代の元後輩に、豪徳寺駅前の花壇のところだったら自転車を停めて花を売っていいよと言ってもらったんです。そしたら、それまでに妻が訪れた街の3倍くらいの量の花が売れて。この街はすごいなと、ふたりで衝撃を受けました。豪徳寺駅の改札から出てくる人の様子を眺めていると、花を抱えている仕事帰りっぽい人もたくさんいて。それだけ需要があるんだなと、すぐに豪徳寺で物件を探し始めました。僕は2022年の3月末に会社を退職しているのですが、その少し前に物件のリサーチを始めて5月5日にはこのお店をオープンしていたので、勢いで突っ走ったような感じがありましたね。開店に伴って暮らしのベースも世田谷区に移しました」(祐一さん)

「今考えるとオープンしたての頃は在庫の置き方とかも貧弱な部分があったんですけど……」と祐一さんは振り返るが、2年半の間で店が育ち、街に馴染んできた様子がうかがえる。それにしても、「花を買って帰る人が多い街」というのは、とても心温まる響きだ。花も音楽も、心に潤おいを与えてくれるものだし、一方では余裕がないと意識が及ばないものでもある。花を買う人が多い街があるという事実は、それだけでどこか安心感を与えてくれるものだ。そんな街に、ハッカニブンノイチも彩りを加えている。

いつでも立ち寄れるお店であるために

取材していると常連のお客さんが入れ替わり立ち替わりやってくる。小学生のお子さんから、継ぎ足し継ぎ足しで毎週花を買いに来てくれるというご婦人まで。きっと皆さん、ここが生活の中のささやかな拠り所になっているのだろう。

「地域のお客さんとの接点をできるだけ増やしたくて、このお店は営業時間を20時まで、定休日は木曜の1日だけにしています。ただ、予約注文の受け取りは木曜日にもやっていて。あるとき、仲良くさせてもらっている花屋さんと市場で話していたら、『誕生日は誰にだってあるのよ』と言われたことがあって。それを聞いてハッとしたんですよ。もし週休2日にしていたら、場合によっては2年間も誕生日の日にうちに来られないかもしれないと。結婚記念日とかも同じですよね。だから、可能な限りお客さんのニーズに応えられるように、開けておいたほうがいいかなと思っているんです」(祐一さん)

「365日、お店でも家でもずっと一緒にいるから、けっこう喧嘩もしますよ(笑)」とこっそり教えてくれたのは成恵さん。でも、仲が悪かったら共にお店を続けるなんてできっこない。祐一さんはことあるごとに「妻は会社員時代にブーケやアレンジをしてきた量がすごくて、ベースのスキルが並外れている」と話してくれたが、そうした仕事へのリスペクトも、花と音楽というお互いの強みを活かして二人三脚で歩んでこられた所以だ。

そんな成恵さんは、ゆくゆくは百貨店やショップなどのショーウィンドウやディスプレイの造花をすることが目標だという。そうなると、ハッカニブンノイチの将来はどう見据えているのだろう。

「なんだかんだ『毎日やってください』と言っていただくことも多いので、そうしたお客さんは大事にしないといけないなと思っています。お店を続けていくために我々2人だけでなく新たに誰かを雇うことも考えられるけど、妻がやっていることは誰でも受け継げる技術ではないし、彼女のアレンジのファンになって遠方から来てくださる方もいる。このお店も自分たちがやりたいことを考えると少し手狭だなとは思うので、オープン10年くらいのタイミングで、大きくするかどうかは考えたいです。1階から3階まで、全部借りられるようになればいいですね」(祐一さん)

これからも花と音楽で人々の暮らしを彩ってほしい。そう無邪気に思うのは、この空間の温かさに触れたからだ。「お店をやっていて一番うれしいのは、お花を贈った相手の方が足を運んでくれること」と成恵さんが話してくれたが、そうした繋がり、喜びの連鎖は、ふたりがお客さんとともにつくり上げたこの場所を起点としている。今では近隣の飲食店などとも交流が深まり、ともに走っていく仲間が増えているよう。

ハッカニブンノイチで購入した花を大事に抱え、街の中に繰り出していく。その弾んだ足取りを「花っていいな」と眺めている人がいる。暮らしを愛でる余裕や、大事な人への想いが、連綿と受け継がれていく物語を想像する。

8 1/2(ハッカニブンノイチ)

住所:東京都世田谷区豪徳寺1-22-2 MTビル1F
営業時間:11:00〜20:00、火曜のみ 13:00〜20:00
定休日: 木曜
インスタグラム:@812flowersandmusic@8.1.2flower

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