夏椿
恵藤文さん
上町駅を下車して、世田谷通りを西に進むと見えてくる「オークラボウル」。道を1本左に入ると、そこには通りの喧噪と無縁の住宅街が広がる。その一角に佇む、器と暮らしの道具店「夏椿」。今でこそ雑貨店やコーヒーショップが点在するものの、9年前のオープン時は周囲に店舗がほとんどなかった。しかし、長い年月をかけて上町エリアは様変わりする。新しい店が次々増え、活気も生まれた。その背景には、「夏椿」店主の恵藤文さんをはじめ、地元の人との交流と奮闘があった。9年という月日を上町の「夏椿」で過ごした恵藤さんが、その想いを振り返る。
文章:仁田ときこ 写真:黒坂明美 構成:鈴石真紀子
都会すぎず、田舎すぎない、緑多き一軒家
「夏椿」の前を通ると、誰もが一度は足を止める。立派な門構え、奥に覗く緑多い庭、懐かしさを感じる日本家屋。たとえ古き良き日本の姿を知らなくても、日本人ならここに郷愁を感じるだろう。点々と連なる飛び石を渡っていくと、目に飛び込んでくる季節の草花。そして、訪れた者を温かく迎える縁側。この風景を眺めていると、まるで時代感がわからなくなる。漂う非日常感。何かに出会えそう、そんな期待が止められない。「夏椿」には、敷地に入った瞬間から、人それぞれの物語が始まるのだ。
もともと二子玉川にある器のお店を立ち上げていた恵藤さん。その前は、表参道で店舗の立ち上げにも関わっていた。どちらのエリアも平日から買い物客で溢れ、周囲には背の高い建物が頭を覆う。見上げるたびに、空が見えない息苦しさを感じていた。
「都会すぎず、田舎すぎない場所で、器や道具を紹介したい。庭がある一軒家で、季節を感じながら店を構えたい。散歩がてら訪れた地元の人をゆっくりもてなしたい」。そんな気持ちが、沸々と込み上げてくる。
そうして始まった新店舗の物件探し。けれど、緑の多い庭付き一軒家を都内で探すのは容易ではなかった。窓から緑が見えることが大前提だったが、窓を開ければ隣の壁とぶつかる、そんな物件ばかりが続く。
「この一軒家と出会ったときも、即決ではなく、ギリギリまで迷いました。最寄り駅から徒歩14分かかるし、周囲には住居ばかりで店舗がほとんどない状態。“この店のために、足を運んでもらえるの?”と、不安が大きかったですね。結局、この物件は半年ほど寝かせて、他で物件探しを続けたんです」
そうこうするうちに、着々と近づいてくるオープン日。個展のスケジュールが控えていたので、それまでに何としてもお店を開かなくてはいけなかった。立地は気になるものの、恵藤さんはこの場所でお店を開くことを決意。オープンに向けて、改装工事がスタートする。
建物に古さを戻していく
改装工事を行ううえで恵藤さんが思ったのは“建物に古さを戻していく”ことだった。建物は築40年と意外に新しいものの、場所自体は古くからの歴史がある。昔、この辺りは東宝の映画の撮影所があり、名だたる俳優が休憩に訪れるような場所だった。人が集まり、和気あいあいと賑わう。そんな光景を、またここで再現できないだろうか?
そうして、恵藤さんによる、建物に古さを取り戻す作業が始まった。よく見ると、この一軒家にはいたるところに新しい部分が残っていた。そこだけ新しく取り替えたような、リフォーム感のあるピカピカの洗面台。現代的なアルミの建具。それが、建物とのチグハグな印象を生んでいた。
「せっかくサザエさんの家のようなのんびりと穏やかな縁側があるのに、その雰囲気を活かせていなくて勿体ないと思いました。火鉢を置いたら似合いそうな空間なのに…」
大工さんにいろいろなことを相談して、自分のイメージする形に改装を進めていった恵藤さん。まず、猫のキズ跡だらけだった壁は、光がやさしく反射する配色で塗りなおした。床は素朴で趣のあるナラ材に貼りなおし、洗面所には古道具屋で購入したクラシカルな洗面台を設置。庭には建物に似つかわしくない陽気な南国の植物が植わっていたので、植木屋さんに伐採してもらい、代わりに季節の花が楽しめる植物を植えてもらった。こうして、少しずつ、少しずつ、恵藤さんの思い描く姿に近づけていった。それはまるで、家に古さを加えていくような感覚だった。少しずつ時間を遡っていく、不思議なタイムスリップ感。
そうして二ヶ月の工事期間を終え、器と道具を扱う「夏椿」が誕生した。お客さんは玄関からは入らず、庭を通って、縁側から店にあがる仕組み。しかも、店内に入るときは靴を必ず脱ぐ。そうすると、店主の恵藤さんが机に座る姿が目に飛び込んでくる。「こんにちは」や「こんばんは」などの挨拶からはじまって、そのまま世間話へ広がることも。この一連の動作が、まるで知り合いの家にふらっと寄ったときの感覚と同じなのだ。単に買い物をしに来ただけではない、気の置けない交流に触れられる。そうしたご近所感を味わいたくて、「夏椿」に通うお客さんも多かったことだろう。
実際に使ってこそわかる、器の魅力
「夏椿」に並ぶのは、日本各地の作家や職人が手がける器や道具。日々の生活で使える実用的なものが、箪笥や卓上に置かれる。特別華美なデザインのものを、仰々しくは置かない。そこに昔からあったような気負いのなさで、さりげなく存在感を漂わせている。暮らしの延長線上にあるような店内で、ゆっくり呼吸しながら。作品が座っている、そんな雰囲気。
だからこそ、訪れた人はきっと想像しやすい。どういう場所で、どういう料理を盛って、どんな気持ちで、自分はこの器を使うのだろう? それは、ジリジリと暑さが肌にまとう夏なのか? 木枯が吹く寒さが厳しい冬なのか? 「夏椿」は、そういう想像に耽られる空間だ。店内はいつだって静かなのに、静かすぎることがない。ときどき、庭先から聞こえてくる鳥の鳴き声や風の音。表を通り過ぎる、下校中の子どもたちの話し声。外の世界とのほどよい距離感が、自分の実生活にほんの少しの接点を生む。ピカピカのモダンなショップの中ではおよそ感じにくい“器を使っている私”を、妙に素敵に連想させてくれるのだ。
そんなリアリティを感じやすい「夏椿」で、恵藤さんが新たに試みたこと。それは、実際に販売している器を使った料理会だ。作家が手がけた器に、料理家の手がけた料理を盛る。そして、お客さんにどちらもゆっくり堪能してもらう。漆のスプーンを口につけたとき、感触はツルツルしているのか、まろやかなのか。厚みがあるのか、薄いのか。飲みものを飲んだとき、そのグラスは鼻に当たるのか、当たらないのか。洋服を試着するのと異なり、食器は実際に使ってみないと良さが伝わりにくい。しかし、それを買う前に知るのは困難だ。以前から、恵藤さんが感じていたことだった。
「それなら、ここで体験してもらおうと思ったんです。こうした料理会を行うと、作品の背景をお客さまに話しやすいし。どういう作家さんが、どういう工程でつくったものなのか。器だけでなく、鍋のお手入れの方法や普段の使い方なども、自然な流れで伝えられます。具体的な体験で、作品の良さを知ってほしくて始めたイベントですね」
そんな料理会で器の魅力を知り、購入を決めたお客さんには、ひとつの傾向があった。実は、作家によって納品に2~3ヶ月、長くて半年かかるときがある。これが欲しい!と実感して、その場で購入を決めた人にとって、半年の待ち時間はさぞ長いだろうと思いきや、恵藤さんいわく「のんびり待ってくれる人がほとんど」だそう。自分の手元に器が届くその日を思いながら、待ち時間をゆっくり楽しんでくれる人が多い。「夏椿」には、そんな人が数多く集まった。
ときには衣服の展示会も開催される。10月は草木染め作家マキマロさんによる「マキマロ展」が開かれた。自然界から紡がれたやさしい色のワンピースやストールに囲まれ、期間中の「夏椿」はさながら秋の里山のようだった。一点ずつ丁寧につくられたワンピースを纏えば、きっとどんな一日も上機嫌になるにちがいない。そんな心がはなやぐ作品も、「夏椿」には数多く集まる。
日々、新しい風が吹く街
オープンから9年の月日が経った。今ではさまざまなお店が軒を連ねる。「賑わってきたなぁ」と、恵藤さん自身も実感する。
「お店を始めたとき、この辺りには本当に何もなくて、どうしようかと常々考えていたんです。世田谷線を知らない人も多くて。上町駅も同様。そこで思いついたのが、街のマップづくりでした。出張で名古屋や福岡に行ったとき、いろいろなお店を紹介している街のマップを見かけたので、それをここでも製作したらどうかなぁと思って」
当時、経堂にあったギャラリー「ロバロバカフェ」を運営し、現在は山口県の俵山で「ロバの本屋」を営むいのまたせいこさんに相談したところ、なんと早速マップのイラストを描いて持ってきてくれたという。
「それをもとに、近辺でお店を営む人を訪ねて、マップづくりに協力してもらいました。うちの店に来たお客さまが、その帰りに近場のお店をいろいろまわってもらいたくて」
そうすることで、恵藤さん自身が近隣の人と話す機会も格段に増えた。仲良くなったお店も沢山ある。それが、とても楽しかった。点と点がつながっていく感覚。完成した「世田谷経堂サイクリングマップ」は「夏椿」のDMスペースに置かれ、現在は「ロバロバカフェ」のあとにオープンした「cafe+gallery芝生」の店主・遊佐さんが制作を受け継いでいる。
そんな紆余曲折を経て、迎えた9年目。今年も上町には新しいお店が沢山できた。恵藤さん自身、街を散策するのが楽しいという。街との距離感が随分近くなった。ご近所の飲食店の人に「夏椿」で料理教室を開いてもらったこともある。お店を訪れた料理家さんに、イベントで出す料理づくりを依頼したことも。どんどん拡大する輪は、今も新しい形で広がっていく。これからどんな「夏椿」が見られるのか、今からますます楽しみだ。
夏椿
住所:東京都世田谷区桜3-6-20
※2018年、神奈川県鎌倉市に移転。
〈移転先〉
住所:神奈川県鎌倉市佐助2-13-15
営業時間:11:00~
ウェブサイト:http://natsutsubaki.com/
(2017/11/07)